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〈考える〉ことで新しい価値を見出せば自分の人生を救済する
〈考える〉という営みは、自分自身の人生を救うものと、単なる言葉遊びのようなものがある。両者はどう区別すればいいのか。川上浩司『京大式DEEP THINKING』から探っていこう。
『京大式DEEP THINKING』
著者●川上浩司
出版社●サンマーク出版
〈考える〉とは新しい価値を生み出すことである
ひとくちに〈考える〉といっても、いろいろなケースがあることは簡単に想像できる。たとえば、洋服は青を買うか、黒にするかを選ぶ場合。これも〈考える〉に含めるべきか。「いや、それは〈考える〉ではなく、〈迷う〉だろ?」と反論もすぐに頭に浮かぶ。では、もう少し“高尚な”例を挙げるなら、転職するか、このまま会社にとどまるべきか。そんな選択はどうだろう? 洋服選びほど卑近な局面ではないし、人生を左右する一大事のように思える。だから、〈考える〉に含めてもいいのでは?
川上氏は、〈考える〉は「深く考える」ことだとして、こう説明する。
「深く考える」とは、たとえば未知のものを目にしたとき、それは何かを、考えて考えて考え抜いたすえに、まったく新しい概念が自分の中に形作られることだ。
ここで注目したいのが、〈考える〉とは「新しい概念」を生み出すことである、という点だ。洋服の色をどちらかに決めたとしても、それは未知のものではないから、〈考える〉ことの結果ではない。人生の分岐点における決断も「新しい概念」を創り出すことではないから、〈考える〉ではない。やはりいずれも〈迷う〉といえるわけだ。
深く考えたすえに得た答えや着想は、割合高い確率で「珍しい、変わっている、ユニーク」なものだろう。
つまり、なんらかの新しい価値ともいえるアウトプットをもたらさなければ、〈考える〉ことにはならないわけだ。
〈考える〉とは人生で価値のあるものを見出すこと
だが、ここでひとつの疑問も生じる。〈考える〉につねに結果を求める必要があるだろうか。〈考える〉ことそのものを愉しんでも、人生を豊かにすることになるのではないか。川上氏はこう語る。
「深く考える」とは「プロセス」であり、必ずしも「最適解」を出すことではない
一方では、なんらかの結果を出すのが〈考える〉だといい、もう一方では、結果より過程が大切だという。これは矛盾していないか。
この矛盾を解消する鍵は、「過程」のとらえかたにある。
たとえば、小学校のテストで100点をとったとする。これは「過程」だろうか「結果」だろうか? テストの点数なのだから「結果」に決まっている。勉強という「過程」を経て100点という「結果」が出たのだ。そんなふうにあなたは思うだろう。なるほど。理は通る。
しかし、いまのあなたにとって、小学生時代にとったテストの点数は、はたして「結果」だろうか。じつはテストの「結果」でさえも、これまでの人生においては「過程」ではないのか。
もっといえば、テストの点数が「過程」なのか「結果」なのかは本質ではない。テストの点数という事実を、自分にとって価値のあるものにできるかどうかが重要だ。100点をとったことで自分に自信がつき、さらに勉強するようになった。学力が身につき、偏差値の高い学校に進めた。それで人生が拓けたのなら、価値のある「過程」であり「結果」なのだ。
深い思考とは、「道中(思考そのもの)」に意識を巡らせて「砂利」や「石ころ」をかき集め、そこからまだ誰も見つけていなかったような「ダイヤモンド」を見つける作業といえる。
〈考える〉とは、そのプロセスに着目しながら、自分の人生で「ダイヤモンド」といえる新しい価値を見つける作業である。そうすることで、自分自身を救済することにつながっていくのだろう。
ぎゃふん工房がつくるZINE『Gyahun(ぎゃふん)』
この記事は、『ぎゃふん⑩ 考えろ』に掲載された内容を再構成したものです。
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