『シェンムーⅢ』は、前作より18年の時を経て発売。往年のセガ・ハード〈ドリームキャスト〉を象徴する超大作シリーズであり、まさに満を持しての登場となった。
ともすれば、“幻の続編”になりかねなかったゲームを実際にプレイすることができた。この1点だけでも幸福なゲームライフを送れたといえるだろう。
一方で、なにやら不可思議な想い、“モヤモヤ”した感じが拭いされなかったのも事実。
しばらく“モヤモヤ”の正体がわからなかったが、謎を解くとっかかりのようなものを思いついたので、ここで述べてみたい。
あなたが当ブログとおなじような想いを抱えていて、なんとも煮えきらない日常を送っているならば、この記事が突破口になるかもしれない。
もくじ
『シェンムー』らしさは時代遅れなのか?
まぎれもない『シェンムー』がそこにある
ゲームを始めてまず気づくのは、グラフィックの美しさだ。ウルサ型のプレイヤーは「最新のゲームとくらべれば見劣りする」などと批判するかもしれない。だが、前作が旧世代のハードの作品であることを考えれば、圧倒的な進化だ。
『シェンムーⅢ』の美麗な見た目は、そのまま〈世界〉の存在感や実在感につながる。朝になれば陽が昇り、人々がそれぞれの営みを始める。夕方になれば陽が沈み、人々は家に帰っていく。主人公が話しかければ言葉を返し、相手がお店の人なら商品を売りこんでくる。
「ゲームのなかに人々の息吹を感じる」。現代のゲームでは決してめずらしくない感覚かもしれない。だが、『シェンムー』シリーズこそその先駆けとなった作品。その卓越性はこの3作目においても健在だ。
「『シェンムー』らしさとはなにか」「それを再現することがプレイヤーをなによりも喜ばせる」。制作陣はそのようにはっきりと理解し、ゲームとしてまとめあげた。その制作姿勢を大いに評価したい。
シリーズのファン(1〜2作目をプレイした者)ならば、死ぬまでに一度は堪能しておかねばならないゲームといえよう。
『シェンムー』をプレイするのは懐古趣味!?
しかしながら、ゲームを進めているうちに、なにやら違和感のようなものがわき上がってくる。手放しで喜べない自分に気づく。
たとえば、『シェンムー』の特長ともいえる「会話」。ドリームキャスト時代はじつに先進的なシステムだった。しかし、本作では妙に引っかかる。はっきり言ってしまえばテンポが悪い。
また、中国の壮大な世界を舞台にしているわりには、物語がしょぼい気もする。ストーリーはほとんど進展せず、謎も未解決のままだ。
もちろん、これが『シェンムー』らしさであることは先刻承知だ。だからこそ、制作陣はあえて現代の基準では冗長と感じる「会話」、消化不良の「物語」を再現しているとも考えられる。
そうはいっても、“モヤモヤ”は解消したい。
『シェンムーⅢ』につきまとう“モヤモヤ”について考えあぐねているうちに、〈懐古趣味〉というキーワードに行きついた。
そもそも本作はクラウドファンディングで製作されたもの。いわばファンサービス。最新のゲームの“テンポ”に追いつく必要などない。むしろ、いまどきのゲームをキャッチアップしようとすれば、それはもはや『シェンムー』ではない。一見すると欠陥と思える部分も、“あばたもえくぼ”。ファン心理として寛容になろうじゃないか。それでだれも損をしないのだから——こんなふうに考えていく。これが〈懐古趣味〉だ。“モヤモヤ”は〈懐古趣味〉で解決できる。
そう思った瞬間もあったのだが……。
それもなんだかちがう気がしてくる。
テストの問題を易しくしてもらったら100点とれました——それでは嬉しくない。やはり難題を解いてこそ達成感を得られ、実力がつくのだ。
〈懐古趣味〉で『シェンムーⅢ』を説明しようとするのは、あまりに贔屓しすぎている。かえって作品を貶めることになるのではないか? そんな想いが消えないから、依然として“モヤモヤ”は燻りつづける。
『シェンムーⅢ』を読み解く鍵は「終わりなき日常」
『シェンムーⅢ』はレビューを拒否する
では、どうすればいいのか? ひとつは「気にしない」。これもひとつの手だ。べつに“モヤモヤ”があるとゲームを楽しめなくなるわけじゃない。“モヤモヤ”に焦点をあてるから気になるのであって、なにも考えず無心にコントローラーを動かせばいいではないか。これは冗談ではなく、本来ゲームとはそのように堪能すべきなのだ。
しかしながら、そうするとレビューも不能になる。記事は書けない。「なにも考えず」にゲームの感想を述べることはできないからだ。この際なんでもいいから、〈懐古趣味〉とは別に、本作を読み解くキーワードを探しあてなければならない。
すると——。
ヒントは意外なところで見つかった。当ブログが書いた『シェンムー 一章 横須賀』のレビューだ。再録してみよう(当ブログの前身にあたるリトルマガジンに掲載したもの)。
最先端の技術は終わりなき日常を表現した
総監督は『スペースハリアー』『バーチャファイター』の鈴木裕。ドリームキャストの性能を活かした映像。壮大なストーリー。総制作費70億円。この作品に対して我々が期待したのは、映画のように胸が躍る映像、CDのように心なごませてくれる音楽、小説のように感動的な物語、などであった。それがゲームというメディアの最先端の姿であり、未来のあるべき形だと信じて疑わなかった。しかし、それはあさはかな認識であることをこの作品は教えてくれる。
なるほど、映像表現には感嘆させられる。プレイヤーの勝手気ままな行動に合わせて、全くの虚構空間を展開させる技術は、まさに最先端の技術であり、21世紀のゲームの表現形式だ。だが舞台となるのは1980年代の「横須賀」という実在の街。悪い王様が住民を苦しめているわけでもなく、モンスターを退治する魔法使いを待っているわけでもない。現実に住むわれわれと同じ「終わりなき日常」を送っているだけだ。主人公のなすべき使命さえも、例えばひたすら荷物を運ぶことに設定されたりする。最先端の技術はこのような「日常性」の表現に使われたのである。
となると、このDC代表作は駄作なのか。そうではない。随所に展開するバトルモード、荷物を運搬するフォークリフトの異様なまでの操作性の良さなど、「日常性」を追究したゲームをあくまでも娯楽メディアとして成立させようとする制作者の工夫と努力と意地が感じられる作品に仕上がっているのだ。
ただ、続編では舞台は香港に移る。主人公には異国となるこの地では、もはや「日常性」の表現はできない。今度はどんな手でくるか。
『ぎゃふん』創刊号
『シェンムーⅢ』を理解するためのキーワードは〈日常〉。それが『第一章』のレビューから導き出せる。
なお、レビューでは、続編で「日常性」を表現できないと予想した。だが、このレビューのあと、実際に続編『シェンムーⅡ』をプレイしてわかった。異国の地でも主人公は「日常」を送っていたことを。
『シェンムーⅢ』はプレイヤーの〈日常〉に滲出する
〈日常〉のなかに喜びを見出す
『シェンムー』シリーズで一貫して表現されているのは〈日常〉。そう理解することで、どんなメリットがあるか? そもそも“モヤモヤ”は解消されるのだろうか?
『シェンムーⅢ』の〈世界〉で展開しているのは、主人公の〈日常〉であるわけだが、じつは本作はプレイヤー自身にも〈日常〉を強いている。
どういうことか?
あるアイテムを入手するために、一定のお金を貯める必要があるとする。そのためには課題をクリアしなければならない。ふつうのゲームであれば、「課題」が簡単にはクリアできないものであったとしても、爽快感を覚えたり、達成感を得られたりする。プレイヤーに快楽を与えることはゲームの本分だ。
ところが、『シェンムーⅢ』では基本的に爽快感も達成感も得られない。なぜなら、〈日常〉とはそういうものだから。なにか劇的な展開があったとしたら、それは〈非日常〉になってしまう。
一例を挙げてみる。『シェンムーⅢ』でお金を貯めるという「課題」をクリアするために、当ブログはフォークリフトで荷物を運ぶアルバイトをすることにした。
最初は楽しい。第1作目にも導入されていた“ミニゲーム”で、懐かしさも覚えた。だが、得られるアルバイト代は微々たるもの。荷物運びは何十回とくりかえす必要がある。ほかのゲームであれば、荷物の種類や荷物を運びこむ場所が変わったりして、飽きがこないようにつくられるだろう。だが、『シェンムーⅢ』は、おなじ作業を淡々とこなすしかない。なぜなら、それこそが〈日常〉だから。
〈日常〉であるがゆえに、そうやすやすと「快楽」は得られない。そんなゲームがおもしろいのか? このゲームを知らない人にそう質問されたとする。『シェンムーⅢ』をプレイする者には、これは愚問となる。問いにはこう答えるだろう。「うん。おもしろいよ」。
おなじことのくりかえしのように思える「荷物運び」も、視点を変えると“遊び”をする余地が見えてくる。
たとえば、どうすればより多くの荷物を運べるか? 途中でブレーキをかけずに走り抜くには? 荷物はどの順番に運べばいい? そんな試行錯誤をしているうちに、創造性が発揮される。創造することは快楽だ。ささいな〈日常〉であっても、創造をすれば、〈日常〉は劇的になり、おもしろくなっていく。
そこに『シェンムーⅢ』が表現する〈日常〉の魅力がある。
ゲームがプレイヤーと一体化する
そして、『シェンムーⅢ』の真価はここから発揮される。
映画を観る、音楽を聴く、小説を読む、といった営みは、いわば疑似的に〈非日常〉を実現する手段ともいえる。もちろん、ゲームをプレイすることもそこに含まれる。
ところが、『シェンムーⅢ』をプレイすることは、〈非日常〉ではなく〈日常〉になってしまう。前述のとおり、プレイヤーに〈日常〉を強いるゲームだからだ。すると、どうなるか? ゲームがプレイヤーと一体化してしまう。いわば、『シェンムーⅢ』がプレイヤーのココロやカラダの一部になってしまうのだ。
『シェンムーⅢ』をプレイしているときに感じた“モヤモヤ”は、自分と一体化していることに原因があった。ほかのゲームでは得られない〈一体感〉が“モヤモヤ”の正体なのだ。正体がわかれば“モヤモヤ”は消える。
『シェンムーⅢ』に対して、「このゲームはおもしろいのか?」「いや、つまらない?」などと考える必要はない。ほかのゲームとくらべることも不要。いや、むしろやってはならない。そんなふうにこのゲームを客観視することは、いわば自分の姿を鏡に映し、自分自身をレビューするようなものだ。下手をすれば精神に異常をきたしかねない。
ことほどさように、『シェンムーⅢ』はきわめて特異なゲームだ。そんなゲームが存在することそのものが“幸福”。ゲームプレイヤーとして、本作をプレイできる時代と環境に身を置いていることも“幸福”。本作を堪能できる嗜好や感受性を持ちあわせているのも“幸福”。
そんな幸福な〈日常〉に感謝しなければなるまい。
Original Game©SEGA ©Ys Net All rights reserved
こんにちは。
シェンムーIIIのレビューを書かれるとは思っていなかったので驚きつつ読みました。
日常という表現は正にそうだと思います。
シェンムーが好き・面白いと感じる人は、現実の日常生活(3食食事できる、トイレに行ける、睡眠がとれる、学校や職場に行ったら会話をするななど)を
当たり前のことではなく幸せだと感じられる人だと思っています。
ゲームが好きで遊ぶ人は、刺激を求める人が多いでしょうからそれを理解できる人は少ないと思っています。
私の中でのモヤモヤ感は別にありまして、
「物語が短い」「モーションが一章やIIより劣っている」「投げ技が無い」などの
開発費が潤沢で無かったことが理由のもので「やっぱりお金か」と残念に思っています。
ちなみに、キックスターターのリワードなんですが、
新型武漢コロナウイルス発生以前から遅延していて、届いていない物が多いです。
それはそうと、私は一章が雰囲気にやはり好きなのだとIIIまで遊んで改めて思いました。
※管理人様、コメント投稿できるような応対ありがとうございました。
『シェンムーIII』は、プレイしようと思った時点で“選ばれた民”なので、プレイヤーは「好き」「おもしろい」などとは別の次元の感想を持つのではないかと思っています。
「物語が短い」「モーションが一章やIIより劣っている」「投げ技が無い」というのは、たしかにそのとおりですね。もしも鈴木裕さんの会社ではなくセガから発売されていれば、また結果が違ったかもしれませんが、歴史にIFを求めるようなもので、なにはともあれ続編がプレイできただけでも良しとしたいところです。
このたびはコメントありがとうございました。これからもよろしくお願いします。