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『進撃の巨人』の〈世界感〉ではなく〈世界観〉を僕たちの共有財産に
『進撃の巨人』は、僕たちとは異なる状況に置かれた若者たちが過酷な運命に翻弄される様子を描く作品——。そう受けとめるのが素直な観賞態度なのかもしれない。余計なことはゴチャゴチャ考えず、次々と巻きおこる騒動に身をまかせ、主人公たちとおなじように自分の心のなかに生まれる感情に向きあうことが、ほんとうの味わいかたなのかもしれない。
そうだとすれば、マンガの持つ魅力的な表現やストーリー、伏線の回収、あるいはアニメならではの作画や音楽のダイナミズム、声優さんたちの演技に酔いしれればいい。
でも、それだけではもったいない——。
なぜ「もったいない」と思うのか。その理由を探ることが、本作をより味わいつくすことにつながる。そんな予感がある。だから、踏み出してみたい、本作に隠された“宝物”を探す旅に。
『進撃の巨人』はみずからの〈世界観〉を提示する希有な作品
結論から述べよう。本作の卓越性は次の点にある。
みずからの〈世界観〉を提示する希有な作品
「ん? それのどこが卓越しているの?」と思うかもしれない。説明する。〈世界観〉は一般的に、作品の設定や味わい・読後感といった意味で使われる。「この作品の世界観が好き」と言うとき、「作品に漂う雰囲気が好き」という意味になるだろう。
しかし、本作が示している〈世界観〉とは、このコトバの本来の意味、すなわち「世界や、そこに生きる人々の真理に対する解釈」のことだ。「作品の雰囲気」は感情や感性でとらえるものだから、〈世界感〉とでも表記すべきだろう。
〈世界〉は本作において重要なキーワードになっている。
仕方無いでしょ? 世界は残酷なんだから
『進撃の巨人(8)』第32話「慈悲」
我々が相手にしていた敵の正体は 人であり 文明であり ——言うなれば 世界です
『進撃の巨人(22)』第89話「会議」
世界は残酷だ
ヒグチアイ / 悪魔の子(『進撃の巨人 The Final Season Part 2』ED主題歌)
本作ではことあるごとに〈世界〉が意識されている。
もちろん、登場人物が「世界」を口にする作品は珍しくない。主人公たちがさまざまな国々を旅したり、地球を飛び出し広大な宇宙で物語が展開したりする作品は古今東西に数多く存在する。究極的には、すべての作品が〈世界〉を描いている、ともいえる。
ただ、物語の舞台こそ外国であったり宇宙であったりするけれども、そこで表現されているのは主人公やその仲間、まわりの人たちのふるまいや感情のありようだけだったりする。この場合、〈世界〉は「〈人〉がいる場所」を意味しているにすぎない。
一方で本作は、〈世界〉に別の意味を持たせている。そこに卓越性があるわけだ。
〈人〉が集まって〈世界〉がつくられているわけではない
では、本作の表現する〈世界〉とはどういうものなのか?
「〈世界〉は〈人〉が集まって出来ている」「〈人〉が〈世界〉を構成している」。一般的にはそのように認識されている。ふつうの作品は〈人〉や〈世界〉をそのように表現するだろう。
ところが『進撃の巨人』では、「たしかに〈世界〉は〈人〉の集合体と考えられるのだけど、〈世界〉は〈人〉とは別の主体としてふるまっている」という真実(=〈世界〉の主体性)が示される。そして、その真実を僕たちはふだん忘れている。「忘れている」という事実を本作は思い出させてくれる。
そんな作品は多くない……というより、当ブログの作品体験を振りかえっても該当するものはすぐには思いうかばない。
そして、本作の真骨頂は次の点にある。
本作では、〈世界〉の主体性を描き出すために、「〈敵〉を変動させる」という手段をとった。
物語の中盤までは、巨人が人類の〈敵〉として主人公たちの平和を脅かすが、やがて巨人は海の向こうにある国の兵器であり、真の〈敵〉はおなじ人類であることが明かされる。
物語が進むと、敵国の兵士には主人公とおなじ民族が含まれており、彼・彼女らは国のなかでは迫害を受け敵視されていることがわかる。
さらに、物語の終盤では、主人公自身が人類の〈敵〉になってしまう。
本作において〈敵〉はめまぐるしく変化し、なにを〈敵〉と考えればいいのか、劇中の人物たちも作品を鑑賞する僕たちにもわからなくなっていく。というより、そもそも〈敵〉など存在しなかったのではないか。〈敵〉の存在を想定すること自体が誤りなのではないか。そんな疑念すらわいてくる。
「〈世界〉は〈人〉の集合体」ととらえると、〈人〉が〈敵〉なら、その集合体であるところの〈世界〉もまた〈敵〉となるが、〈人〉と〈世界〉は必ずしも同一視できるものではない。〈敵〉となるべき〈人〉がいたとしても、そのまま〈世界〉が駆逐すべき存在にはならない。逆に、〈世界〉が〈敵〉になるとしても、そこで暮らす〈人〉までも打倒すべきものになるとはいえない*。
*〈世界〉を「国」と言い換えれば、ここまでの話が理解しやすくなるかもしれない。
〈世界〉の主体性を描くことにより、物語の外側にいるはずの僕たちが直面しているような問題、たとえば「国家」「民族」「戦争」「差別」「分断」といった問題の本質があぶり出されてくる。物語の外側の現実でも〈世界〉は〈人〉とは別の主体だからだ。
本作は、〈世界〉の主体性にまで踏みこんだ。受け手に〈世界感〉を与えるだけにとどまらず、〈世界観〉を提示するところまでたどりついたのだ。
僕たちは未来を見通せないからこそ自由だ
ここでいよいよ本題に入る。『進撃の巨人』が提示した〈世界観〉とは、どのようなものなのか?
じつは本作からどのような〈世界観〉を読みとるかは、受け手に委ねられている。というのは、あらゆる作品は、それを受けとる者の内面を写し出す“鏡”のようなものだからだ。
本作に絶望を見たのなら、その者の内面に「絶望」があり、希望があると思えたのなら、その者の内面は「希望」があふれていることになる。
本作は一見すると絶望的な物語だ。
最初は巨人に蹂躙され、主人公たちの奮闘でこれを撃退するも、巨人の力を上回る近代兵器を持つ国々が立ちはだかる。
それだけではない。
主人公と戦いをともにする幼なじみは「争うのではなく話し合おう」と提案するが、ことごとく裏切られ、血で血を洗う戦いに発展してしまう。
「人が争うのを止めることはできない」「この世から戦争はなくならない」「話し合いで暴力は抑えられない」。本作はそんな〈世界観〉を僕たちに提示しているのだろうか。
たとえば、「話し合いで解決することを提案するが、それが叶わない」というふうに物語が展開したとする。それによって「話し合いで戦争は終わらない」という〈世界観〉が示される。
あるいは「戦意を剥き出しにする仲間たちが殺されていくのを尻目に、武器を手にしなかった人物は生き残る」といった感じでストーリーが進んでいく。そうすることで「争いはなにも生まない」という〈世界観〉を表現する。
それではあまりに底が浅い。もちろん本作はそんなあからさまな展開にはならない。当ブログは本作から次のような〈世界観〉を読みとった。
主人公は未来を見通す能力を持っている。自分の見た未来にもとづいて行動していたらしい。しかし、この能力によって「希望」の未来を選択するのではなく、「絶望」の未来に向かって突き進んでしまった。未来を知っているからこそ、自分の行動に意思を介在させることができない。未来を見通す力を持つことは、自由ではなく不自由なのだ。
一方、主人公の仲間たちに未来を見る力はない。だからこそ、「希望」を持って行動していく。彼・彼女たちには自由がある。
では、僕たちはどうなのだろう? 当然ながら、主人公のような能力は持っていない。未来を予測することならできるかもしれないが、この激動の時代ではその予測すら不確実なものにならざるをえない。
つまり、現実世界で生きる僕たちは未来を見通す能力がないからこそ自由であり「希望」を持てる、ということになる。主人公ではなく、その仲間たちの側に立っているのだ。
「人が争うのを止めることはできない」という状況を嫌というほど目の当たりにしたとしても、その惨状が未来永劫つづくのかはわからない。だからこそ「希望」がある。実際、物語のラストでは、主人公の仲間たちはその「希望」を現実化すべく行動していく。
つまり——。
〈世界〉は残酷ではない
これが本作の提示する〈世界観〉ではなかろうか。
『進撃の巨人』の提示した〈世界観〉は、現実世界に生きる僕たちが「希望」を失わずにこれからの時代を生きていくための道標になる。本作を単なるマンガやアニメにとどめず、人類の共有財産として末永く珍重していきたい。
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