アニメ版『ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース』(第3部)は、第1部・第2部と同様、たいへん素晴らしい出来栄えであった。
第1部もレビューをした。しかし、第3部にはこれまでと異なる点がある。今回は、それを分析しながら、本作の魅力を探っていこう。
原作マンガを完全移植した心意気
ズバリ言うと、本作が面白いのは、原作のマンガをまるごとアニメに移植しているからだ。原作の持ち味をそのまま再現している。
ほかの原作つきのアニメ作品も、キャラクター・デザインやストーリーぐらいは踏襲する。しかし、本作は独特の構図や特徴的なセリフまわしも流用しているのだ。
マンガとアニメ。表現形式が違うから、ともすれば映像作品としては不自然さを感じてしまう。ところが、原作を知っているならまったく違和感を覚えない。逆にマンガ版を知らなくても、作品が醸し出す“呼吸”や“リズム”、“語り口”といったものに圧倒され、やはり変だとは思わないだろう。
とくに、本作の場合、マンガのエピソードを一切省略していない点には感嘆せざるを得ない。製作陣の意志だけで実現できるものではない。さまざまな幸福な条件が重なった結果だろうが、過去のシリーズの質が高かったことも大きく影響しているはずだ。
まさに「完全移植」を堂々と謳う資格のある作品といえる。
じつは原作には血も涙もない
原作のマンガは、「スタンド」と呼ばれる特殊な能力を持つ者たちが戦う話だ。毎回、新しい敵(スタンド使い)が登場し、まずその能力に主人公たちが翻弄。試行錯誤のすえに、敵の弱点を発見し、勝利をおさめる。この繰り返しだ。
主人公の空条承太郎は最初から無敵で、物語が進むにつれ成長することはない(最後の戦いは除く)。反目しあっていた者に友情が芽生えるとか、出会った女とのラブ・ロマンスが展開するといったお話でもない。
たとえば、旅の途中で家出少女と出会う。主人公たちとなんらかのドラマが生まれるのかと思いきや、あっさり途中でいなくなってしまう(名前すらわからない)。
いまから思えば、『ジョジョ』は『ジャンプ』全盛期のマンガの王道からはずれていた作品なのだ。
スタンド能力の応酬に特化した物語。情を引きずらず、非情に徹する。これがマンガ版『ジョジョ(第3部)』の特徴だ。
アニメは血も涙も通っている
先に「原作のマンガをまるごとアニメに移植」と書いた。ここで訂正する。いや、完全移植であることは間違いない。ただ、原作にない要素がこのアニメ版に加わっている。そう。本作には、まさに〈情〉があるのだ。
といっても、新しいエピソードが追加されているわけではない。物語は何も足さず、何も引かず再現している。
しかしながら──。
物語の終盤、マンガ版と同様、仲間たちが強敵によって倒されていく。原作がドラマチックでない、というつもりはない。だが、どこか諦観や無常感が漂っている[注]。彼らの死は意味のあるもの、言わば殉職。だから、なんとか受け入れられる。
[注]これは原作者・荒木飛呂彦先生の価値観なのかもしれない。たとえば、本作の主人公・承太郎は、このあとのシリーズでも、きわめて重要なキャラクターとして華々しい活躍を見せる。ところが、とある強敵の前にじつにあっさりと敗北してしまう(死亡シーンはわずか数コマ。屍体がグズグズと腐敗していく様子すら描写される)。
だが、アニメ版はどうだろう。死に方や死の理由は、マンガ版と同じであるのにもかかわらず、どこか割り切れない。登場人物に血も涙も通っている。だから、〈情〉に流される。
アニメーターがキャラクターに“演技”をさせ、声優が“命”を吹き込む。バックに音楽を流し、効果音をつけ“空気感”を醸成する。そんなふうにマンガをアニメに置き換える際に、〈情〉が付け加わった、いや、付け加えざるを得なかったのだ。
これがマンガ版とアニメ版のただひとつの違い。アニメ版の魅力というわけだ。
ちなみに、「家出少女」にも、アニメ版では名前(アン)が与えられ、特Aランクの声優(釘宮理恵)がキャスティングされている。
©荒木飛呂彦&LUCKY LAND COMMUNICATIONS/集英社・ジョジョの奇妙な冒険SC製作委員会
喫煙シーンじゃなくて!?
コメントありがとうございました。
たしかに“大人の事情”による改変はちょこちょこ見受けられましたね。