あなたは本作『ブロークン レイジ』を満喫できただろうか? 「つまらない」「クソ映画」「駄作」などといった感想を抱いたのではないかとお見受けする。そんなあなたに、「これは大傑作だ!」とまでは言わないまでも「あながち時間の無駄ではなかった」と思えてくるマインドチェンジの方法をお伝えする。あなたの映画ライフを応援する約8分間。お楽しみください。
[ほぼネタバレなしなので、作品を観る前でも安心です]
本作『ブロークンレイジ』は私はなかなか楽しめた。前半約30分、後半約30分の1時間、自宅でお手軽に観られる映画といった趣で、肩ひじはらずに作品に向き合えたのがよかったのだろう。
しかし、SNSやブログの感想を見ると、賛否両論であり、どちらかといえば否が多い印象だ。たしかに、ネットの声は否が多くなりがちとはいえ、誰にでも楽しめる作品ではないのもたしかだ。
そこで今回は、賛否の賛の立場から、本作を楽しむためのマインドチェンジ法といったものを紹介したいと思う。
前半「シリアス」、後半「コメディ」を疑う
本作は、前半が『アウトレイジ』のようなシリアスなヤクザアクション、後半は前半をパロディにしたコメディの二部構成になっている。これが公式の説明だ。しかし、「シリアス」「コメディ」という構成から疑うべきではなかろうか。
というのは、前半は『アウトレイジ』だとして、オリジナルの『アウトレイジ』そのものが、それまでの北野映画のパロディ、すなわちコメディだからだ。
どういうことか?
以前にブログにも書いたことだが、『アウトレイジ』以前の北野映画はセリフが最小限で、暴力シーンも淡々と展開していた。
だが、『アウトレイジ』シリーズからは一転し、「バカヤロー」「コノヤロー」が連発する、セリフの多い映画になった。これは「ヤクザ映画なんて、もうギャグにしかならねぇんだよ、バカヤロー」という北野監督の開き直りの叫びだったのではないか。
すなわち、『アウトレイジ』シリーズは、一見すると怖い暴力映画の皮をかぶっているが、その実はコメディ映画というわけだ。
しかしながら、観る側はコメディであるとは意識していない。そこにギャップがある。そのギャップこそが『アウトレイジ』シリーズのエッセンスになっている。
『アウトレイジ』がコメディなのだから、本作『ブロークン レイジ』の前半は、『アウトレイジ』のパロディ、すなわちコメディと考えるべきなのだ。
『ブロークン レイジ』後半の真実とは?
となると、『ブロークン レイジ』の後半はどうなるのか? パロディのパロディという奇妙な作品になる。
それはいったいなんなのか?
シリアスでもコメディでもなく、言ってみれば「シニカル(冷笑/自嘲)」。
『ブロークン レイジ』の後半は、形式上はコメディだが、実際は「シニカル」なのだ。
ということは、北野監督も(もちろん真意はわからないが)本気で笑わそうとしているのではなく、むしろ嗤ってもらおう、バカにしてもらおうと、自虐的に考えているのではないだろうか。
したがって、本作で北野監督は、いかにバカバカしいことができるか、その困難にチャレンジしているように思える。
だとすると、観る側としては、むしろ笑ってはいけない。笑ったら負けなのだ。
不思議なもので、笑ってはいけないと思うと、逆に笑えてくる。もしかしたら、それを北野監督は狙っているのかもしれない。
パロディのパロディから生まれるものとは?
『ブロークン レイジ』の前半は『アウトレイジ』のパロディであり後半の前ふり、後半はパロディのパロディだとしよう。すると、コピー機で何回もコピーを重ねているうちに書かれているものが劣化していくように、作品としては出がらしのようなものになっていく。スカスカになって、なんの旨味も残らなくなる。
そこから生まれるのはなんだろうか?
それは、ある種の空しさ、わびしさ、さびしさ、虚無感、寂寥感、世の中に対する諦観のようなもの。
考えてみると、そういった虚無感や寂寥感こそが、北野映画に共通して、通奏低音として流れているものではなかったか。
『ブロークン レイジ』は、その意味で、紛うことなき北野映画といえる。
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