押切蓮介と白石晃士。ホラーの名手がタッグを組んだ本作『サユリ』は、予想どおり恐ろしいホラー映画に仕上がっている。一方で「丁寧な暮らしをしましょう」というメッセージも受け取った。本作から得られる人生の学びとは?
[基本的にネタバレなし。本作の鑑賞前後におたのしみください]
本作の悪霊のふるまいはシリアルキラーのそれ
まずは、本作『サユリ』の物語展開を振り返ろう。
前半は、いわくつきの家に引っ越してきた家族が次々と命を落としていく。どうやら怨霊とか悪霊の類いに呪い殺されてしまったらしい。そして、後半は(これは予告などでも伝えられているのでネタバレではないと思うのだが)なぜか“覚醒”したとおぼしい祖母が悪霊に復讐を企てる。前半がいわゆる心霊ホラー、後半はモンスターとのバトルアクションといった趣だ。
しかし、前半はただの「心霊ホラー」ではない。
いわゆる心霊ホラーの場合、人々が死んでいったら「呪い殺される」などと表現する。つまり、登場人物を起点とした受け身の視点。しかし、本作は「呪い殺す」——いや、単に「殺す」がふさわしい。いわば悪霊側を起点とした攻めの視点だ。それほどまでに描写は直接的な暴力性に満ちている。悪霊のふるまいは、シリアルキラーのそれなのだ。だから“えげつない”殺人シーンが連続する。
往年のジャパニーズ・ホラーを踏襲せず、1980年代のハリウッドのホラー映画を参照しているとおぼしいのは、いかにも白石監督作品らしい。ジャパニーズ・ホラーのような“生ぬるい”描写では、後半の復讐劇が活きないだろうから、これは正しい作劇といえるだろう。
すでに死んでいる者に復讐するにはどうすればいいのか?
本作の白眉は後半の復讐劇ということになる。そこはよくある心霊ホラー映画とは一線を画す。ただ、よくよく考えてみると「悪霊に復讐する」とはどういうことか? これはなかなかの難問だ。
相手が人間であれば「家族とおなじ目に遭わせる」という手が使えるが、本作の復讐の相手は悪霊だ。すでに死んでいる。では、どうするか?
この点は、本作の白石監督というより、原作者の押切蓮介氏の頭を相当悩ませたのではないかと想像する。原作のマンガも本作も、その難題をクリアし物語世界を巧みに構築していると評価できるが、悪くいえば「うまく誤魔化している」という印象は拭えない。
ただ、問題は必ずしも本作(および原作マンガ)にあるわけでもないように思う。
結局のところ、〈復讐〉という行為の虚しさに原因があるのではないか。あるいは、「死んだ者はどんなことをしようと帰ってこない」という絶対的な不条理。
だから、悪霊に〈復讐〉や〈仕返し〉をしたとしても——後半でどんなに痛快な対決シーンを描いても、観る者がそこから得られるカタルシスは限定的なものになってしまう。
ひょっとすると白石監督はその点に自覚的であったのかもしれない。本作には原作のマンガにはないオリジナルの設定が加えられている。これにより、人間存在がもつ虚しさ・不条理・醜悪さ・滑稽さなどが原作のマンガよりも強く表現されている。
悪霊に立ち向かうには丁寧な暮らしをすること
「悪霊に復讐するという胸の高鳴る展開なのに、カタルシスが得られないなんて駄作ではないか」
そんな誰かの感想を目にした……わけではなく、当ブログが本作をどう受け止めるかを考えていたときに、ふとそんな疑問がわいてきた。
しかし、あらためて思い返すと、本作でもっとも印象に残ったのは、呪い殺されるシーンでも、あるいは老婆が暴力的に復讐するシーンでもなかった。
「命を濃くする」と称して、しっかり食事をし、睡眠をとり、運動をし、家を掃除する。そうすることで、悪霊に対抗できるとする。むしろそうすることこそが“復讐”とか“仕返し”になるという世界観だ。
もしかすると、原作のマンガも本作も、観る者にもっとも伝わってほしいと考えたのはこの点だったのかもしれない。
家族を次々と亡き者にしていくような強大な邪悪に立ち向かうのに、特別な霊能力の類いは必要ない。食事・睡眠・運動・家事。人として普通に生活すればよい。
その視点を手に入れたとき、ホラー映画を観ているはずなのになんだか生きる気力がわいてきた。「丁寧な暮らしをしよう」と決意を新たにした。映画を観る前にわずかながら残っていた人生への不安も吹っ飛んだ。
とどのつまり本作『サユリ』はホラー映画ではない。ホラー映画の皮をかぶった自己啓発映画だ。
その意味で、NHK Eテレなんかで放映すべき映画なのだ。そうすれば、社会が活性化し幸福に生きられる人がもっと増えるのではないか。
いいかえれば、本作における〈悪霊〉の正体は、停滞しているこの社会そのものなのかもしれない。
© 2024「サユリ」製作委員会/押切蓮介/幻冬舎コミックス
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