「結局この世は運次第」という諦観を持っています。成功は、どれだけ努力をしたか、どれほど実力があるかではなく、いかに幸運に恵まれるかで決まるようです(たとえば、こちらをご参照)。
とはいっても、やはり〈努力〉は必要です。問題は〈努力〉が必ずしも結果に結びつかないところにあります。誰だって〈努力〉はしてるのだけど、〈努力〉している人の一部しか人生の“勝ち”を得られない。理不尽な世のなかを私たちは生きているわけです。
そんな世界で私たちができることはあるのでしょうか? それは人生の“勝率”を少しでも高めることかもしれません。
そこで私は、『のんのんびより』に登場する宮内ひかげのアドバイスを参考にしています。
ひかげはマジックの失敗に対してこう叱咤した
『のんのんびより』は、全校生徒が5人しかいない学校が舞台。第9話「文化祭をやってみた」では、ささやかな文化祭が催されます。
越谷夏海は「タネも仕掛けもありません」などと言いながら、テーブルクロス引きを披露しますが(予想どおりというべきか)失敗。テーブルのうえにあったコップは無残にも床に散乱してしまいます。「タネも仕掛けもなかったでしょ?」と悪びれる様子もない夏海に対し、ひかげは次のように叫びます。
「仕掛けろよ
なんでもいいから花咲かせろ!」声:[宮内ひかげ]福圓美里
『のんのんびより』第9話「文化祭をやってみた」
©2013 あっと・株式会社KADOKAWA メディアファクトリー刊/旭丘分校管理組合
人生における“勝ち”とはなにか?
ひかげの夏海に対する叱咤をどう人生に活かしているか?
マジシャンは手品を披露する予定がなかったとしても、つねにタネを仕込んでいると聞きます。ふいに「なにかやってみせて」と言われたときに対応できるようにするためです。私もマジシャンのように日ごろから“タネ”を仕込んでいるのです。
最近、こんな出来事がありました。
某メディアで企画を立てました。その企画には協力者が必要でした。ふつうなら、ゼロから協力者を探し出し、企画の趣旨を丁寧に説明しながら協力をお願いするところです。その作業には手間と時間がかかります。
しかし、今回は適任者に心当たりがあり、すかさず連絡。その場で快諾していただきました。
これほどスムーズにコトが運んだのは、じつは毎年その人に年賀状を出していたからです。まさに「手品を披露する予定がなかったとしても、つねにタネを仕込んでい」たわけです。「仕掛け」て「花を咲かせ」たといえます。
ただし、このエピソードには2つの落とし穴があります。
ひとつは、あくまで結果論だという点。「協力者」という結果からさかのぼれば、たしかに「年賀状」はタネに思えるのですが、年賀状を送っていた人が企画の協力者として適任だったのは偶然です。年賀状の相手のすべてがなんらかの結果につながっているわけではないのですから。
ふたつめは、「年賀状」という仕掛けによって得られた「協力者」を“花”と呼ぶには、あまりにショボいのではないか、ということ。はたしてそれが人生の“勝ち”といえるのかどうか。
今回のポイントは、人生においてなにを“勝ち”と考えるかにあります。「大金を稼いだ」「名声を得た」などの結果が出たなら、それは多くの人が“勝ち”と思うでしょう。しかし、そんな“勝ち”をつかめる人はごくわずか。「花を咲かせる」ための「仕掛け」のほとんどがムダになるのです。
そこで発想を変えてみます。「人生における“勝ち”とは〈結果〉ではない」と考え、〈結果〉ではなく〈過程〉に着目します。すると、「仕掛け」と「花」がつながったという過程そのものに“勝ち”を見出すことができます。「仕掛け」のすべてが「花」になるとはかぎらないわけですが、「咲かなかった花」のことは気にしないのです。
「それでは詭弁ではないか」「屁理屈だ」と思うかもしれません。
ここであらためて人生の“勝ち”とはなにかを考えてみます。
充実感とか達成感を得られたなら、それは“勝ち”なのではないでしょうか。お金や名声が充実感や達成感をもたらすことも当然あるでしょう。では、今回のように「仕掛け」が「花を咲かせた」ようなケースは? 自分の人生を主体的に動かした。自分の人生に対し能動的に向き合った。その事実に対して充実感や達成感、ひいては〈幸福感〉を持てる気がします。
お金や名声ではなく、〈主体性〉や〈能動性〉こそが人生を“勝ち”へと導くキーワードかもしれません。充実感や達成感を「花」と考えてもいいわけです。
ひかげはこう言っています。
仕掛けろよ なんでもいいから花咲かせろ!
そう。「花」は「なんでもいい」のです。
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