精神的に向上心のあるものも 人生はくじ引きだ

人生のヒント

〈人生はくじ引き〉と言うと、「自分の努力不足を運の悪さのせいにするな」「そこまで人生を悲観しなくても……」などと思う人もいるかもしれない。「真面目に取りあうべき考えかたではない」と一笑に付す人もいるだろう。だが、これは当ブログだけが主張する世迷言ではなく、似たようなことを述べている書物がけっこうあるのだ。ここではその一部を紹介しながら、持論を展開してみよう。

もくじ

スキルアップしたからって成功するとはかぎらない──佐藤留美『なぜ、勉強しても出世できないのか?』

「精神的に向上心のもの」。これをビジネスパーソンに置きかえると、「キャリアアップやスキルアップをめざすもの」と表現できるのではないか。まずは、これらの“欺瞞”から考えてみよう。

「スキルアップしなければならない」のは幻想

ビジネス雑誌や書籍を開けば、つねに「キャリアアップ」や「スキルアップ」があつかわれている。リーダーシップやノート・手帳、コミュニケーションなど、テーマはさまざまだけれども、めざすところは「キャリアアップ」「スキルアップ」だ。「成長する」「成果をあげる」といった表現をそこに加えてもいいかもしれない。

そもそも私自身、本職のライター業ではビジネス雑誌・書籍を手がけることも多い。雑誌によってテーマや切り口は異なるが、とどのつまり落としどころは「スキルアップ」や「成果をあげる」だ。もっといえば——。

お手元に『ぎゃふん⑥』をお持ちのかたは、特集「小説家の仕事術」を開いてほしい。ここでも「スキルアップ」が裏のテーマとして流れている。そもそも「なぜスキルアップしなければならないか」は説明していない。スキルアップの必要性については、書き手にも読み手にも不要ということだ。

ようするに、猫も杓子も「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という前提を無意識に受けいれているわけだ。

だから、ビジネスパーソンたるもの、すべからくスキルアップをし、成長して、成果をあげなければならない——そんな“錯覚”にとらわれてしまう。

だが、人はそこまで「スキルアップ」しなければならないのだろうか? だれもかれもが「成長」しなければならないのか? ここで冷静に考えてみたい。

「スキルアップ」は多くの場合ムダに終わる

本書の著者は、私とおなじようにビジネス雑誌や書籍を手がけるライターで、これも私と同様、ビジネスパーソンに「スキルアップ」を煽ってきた“戦犯”だ。

本書の著者は自身の経験から、ビジネス雑誌などのメディアでうたわれた「スキルアップ」の正体を喝破する。

我が国のスキルアップ教の歩みは、そっくりそのまま、リクルートの戦略だったと言っても、決して大げさではなさそうだ。

[中略]

情報の受け手がメディアを通して「流行っている」と信じ込まされている現象は、実は情報の出し手による商売繁盛のための戦略であることが多いのだ。

実際、メディアで「成功者」として紹介されていた人物は、ほんとうに成功したかどうか疑わしいという。

本書執筆にあたり、気になって、このムック[引用者注:著者が携わった女性起業家を特集したムック]に登場した女性起業家たちをネット検索したところ、かなりの人が会社を売却、あるいは畳むなどして、経営から離れているようだ。

言うまでもなく、当ブログも本書の著者も「スキルアップ」や「成長」を全否定するわけではない。一方で「向上心」を発揮しても、それが徒労に終わることがあるのもまた事実。

本書の著者はこう語る。

勉強したり、高みを目指して自己研鑽するのは良いことだ。だが、胡散臭い流行に飛びついたり、見当違いな勉強をしたり、また、その効果に期待し過ぎたりすると、肩透かしを食うケースも多いのである。

では、「向上心」がムダになるかどうかはなにで決まるのか。本書はずばり「運」だという。

自分のキャリアは常に、マーケットとともにある。そして、株式投資同様、マーケットは読みにくい。勝ち逃げできるかどうかは、多分に運にも左右される。

もちろん、成功者が「運」だけで世のなかをわたってきた、などというつもりはない。その人は「精神的に向上心のもの」で、それが報われた結果なのだろう。一方で、「精神的に向上心のもの」が必ずしも成功するとはかぎらない。これも疑問の余地はないはずだ。

その人が、その職業を、その手法でたまたま成功しただけで、一般的に、読者が同じように同じことをやって果たして成功できるか疑わしい。

「向上心」があっても成功できるかわからないなら、「向上心」を持つことが人生の戦略として正しいかどうか疑問が生まれる。

ここで言いたいのはその点なのだ。

「精神的に向上心のもの」が成功するとはかぎらない

努力が報われない社会でどう努力すればいい?──中野雅至『格差社会の世渡り』

「努力」という言葉も「精神的に向上心のもの」が好みそうだ。「成功するためには努力が必要」「努力すれば報われる」などとよく言われる。ほんとうだろうか?

努力の量が成功に結びつくわけではない

ぎゃふん⑧』でも述べたとおり、「努力がムダだ」と言いたいわけではない。努力は必要だ。しかし、それは「宝くじは買わなければあたらない」とおなじていどの意味しか持たないのではないか。*1

*1:元になっているブログ記事は「あなたも私も『下流老人』になる」。

だれだって努力はしている。あなたも、私も……。では、「勝ち組」と「負け組」を分かつのは、その努力の差なのだろうか。

本書の著者もこの点に疑問を抱く。

私が疑問を感じる二つ目は、「起業家と努力プアとの差」は努力の違いによって生み出されたものかどうか、という点です。「努力の方法が異なった」というだけで、両者の努力量に違いがあるとは思えません。いわば、努力の質が違うだけで量は同じだということです。

たとえば、収入が2倍ちがう人は努力の量も2倍ちがうのだろうか。けっしてそうではないだろう。「努力」と称する「向上心」が必ずしも成功を保証するわけではないのだ。

アタリくじを引かなければ努力はできない

快挙を成しとげたスポーツ選手や、一代で財を築いた起業家などは、当然、人並み以上の努力はしたことだろう。だが、なぜその人たちはそこまで努力することができたのか? そんな疑問を持ったことはないだろうか。

努力を続けるためには何が重要でしょうか。簡単です。自分の好きなことをやるべきなのです。努力が継続しないようなことを選択すべきではないのです。

成功したスポーツ選手は、そのスポーツがなによりも好きだったのだろう(少なくとも嫌いではなかったはず)。成功した起業家も、その仕事をするのが好きだったにちがいない。

スポーツ選手や起業家の成功は、たしかに努力のたまものであろう。だが、その前提には「それが好きであること」があったはず。では、「それが好き」であったことには、なんらかの戦術が含まれていたのだろうか? 「人生で成功するために好きになろう」というような。それは考えにくい。本人の生まれ持った資質なのか環境的な要因かはわからないけれども、たまたま「それが好き」だったのでは? つまり、「それが好き」だったのは、〈運〉だったのだ。

人生のアタリくじをそこで引いたことになる。

そこまではいいとしよう。問題はここからだ。

「よし。毎日、苦痛に耐えながら嫌な仕事をつづけて人生を浪費するのはやめよう。好きなことで努力してみよう」と息巻いても、それが成功に結びつくかどうかわからないのだ。

悩ましいのは、自分の好きなことが「どう考えても、生活維持手段に向いていない」「これから廃れる職業だ!」という場合です。

自分の好きなこと、モチベーションのあがること、努力できることが、不運にも成功に結びつくものでない場合、その人はハズレくじを引いたのとおなじだ。

この問題に対する解決策は、残念ながら本書の著者も持ちあわせていない。

どうしましょうか……。私にもよくわかりませんので、親か学校の先生にでも相談して下さい。

〈人生はくじ引き〉にしないための突破口は?

この日本が努力の報われる社会——努力のすべてでないにしても——なのであれば、喜んで努力もしよう。失敗が努力の不足だったのであれば、その事実を真摯に受けとめることもしよう。だが、いまの日本はそうなっていない。

がんばった人の中にも報われていない人がたくさんいますし、「金儲けに成功している人」も「がんばった結果」かどうかはわからないということです。実際には、偶然の占める要素が相当大きいと思いますが……。

こんなことでは、やはり「精神的に向上心のものは馬鹿だ」とちょうせざるをえない。

なぜ〈人生はくじ引き〉になっているのか? おそらく社会がゆがんでいるからだろう。本来ならば、社会システムがその歪みをただす役割を果たすはずなのだが、そのようには機能していないと考えられる。だから、その機能不全を改善しようと「努力」することこそが、人生の負け組の突破口になるのではないか。

努力をして成功を勝ちとろうとしても運が悪ければ実らない

成功するかしないかは運次第と考えたほうがいい──ロバート=H=フランク『成功する人は偶然を味方にする』

努力や才能が必ずしも成功に結びつくわけではない——この点がいまいちに落ちない人もいるかもしれない。成功は〈運〉であるという真実をあらためて掘りさげてみよう。

成功を努力や才能だけで説明するのは無理がある

「成功した人は運もよかったかもしれないが、やっぱり努力や才能のおかげじゃないの?」。ほとんどの人はこう考えているはずだ。

仮に〈成功〉を構成している要素が〈運〉と〈努力・才能〉に分けられるとする。多くの人は、〈運〉1割、〈努力・才能〉9割ぐらいだと漠然と考えているのではないか。〈運〉の要素がゼロだった場合(いわゆる「運が悪かった」場合)、たしかに成功はしなかったかもしれないが、〈成功〉に占める〈運〉の割合は1割なのだから、〈努力・才能〉があればいつか〈成功〉するのでは? ——こんなふうにたいていの人は思っているのではないか。

しかし、〈成功〉を構成するのは〈運〉が9割、〈努力・才能〉1割だったとしたらどうだろう。“幸運の女神”を味方につけなければ〈成功〉はおぼつかない——そんな気がしてくるだろう。

〈成功〉が〈運〉1割+〈努力・才能〉9割でできているとすれば、もう少し報われる人が多くてもいいのではないか。

はたして現実はどうなのだろう?

本書の著者も当ブログとおなじ疑問にたどりつく。

才能も、受けた教育も同じくらいの人が、同じようにまじめに働いているのに、なぜ所得に大きな差がつくのだろう? また、近年その差が広がっているのはなぜだろうか?

そして、その疑問を経済学的に次のように解釈する。

これまで労働市場は、生み出した価値の対価として報酬が支払われる、完全競争による実力主義で成り立っていると考えられてきた。この考え方によると、所得格差は主に「人的資本」の差で生まれる。

[中略]

所得格差の拡大を、「人的資本説」で説明するには無理がある。

「人的資本」はここでは〈努力・才能〉と言いかえてもいいだろう。ようするに〈成功〉を構成する要素は〈努力・才能〉だけではないというわけだ。

本書では興味深い実験が紹介されている。競争において、〈運〉や〈努力・才能〉がどのように作用するかを測るものだ。実験の詳細は本書を参照していただくとして、結果はこうだ。

参加者が多ければ、能力がトップの参加者にほんのわずか劣るものの、大きな運に恵まれる者がたいてい現れる。したがって、運が左右するのが全体のパフォーマンスのごく一部だとしても、最も能力が高い人が勝者になることはほとんどない。むしろ最も幸運な者のひとりが勝つのである。

ようするに、「勝者」は「能力の高い者」ではなく、「運のよい者」になるというのだ。

「成功は運である」と考えると社会はよりよくなる

では、成功するかどうかは〈運〉で決まるからといって、〈努力・才能〉は必要ないのだろうか? もちろん、本書の著者はそのようには言っていない。

どんな分野でも、その道をきわめるにはたいへんな努力が必要だ。挑戦と失敗をくり返しながら、新しいスキルをすこしずつ身につけていかなければならない。だが、そうした努力をするのは簡単ではない。運が重要だとする人は努力をしない口実を考え、結果はすべて運次第だとしてしまう。だから、能力と努力だけを信じることで困難に対処しやすくなるのなら、運の重要性を否定するのもあながち悪いことではないのかもしれない。

ようするに、現実は成功するかどうかは〈運〉によるところが大きいけれども、そう思っているとかえって成功が遠のく、というきわめてシュールな状況になっているというわけだ。

とはいえ、「成功するかどうかは〈運〉で決まる」と考えることは、自暴自棄のように見えるが、悪いことばかりではない。

もちろん、成功したのは幸運だった、とすぐに認める人も大勢いる。そういう人は、成功をもたらしてくれた環境をつくり支えてきた公共投資を支持する傾向にある。

つまり、成功はあくまで環境などの外的要因が大きいと考えるなら、より多くの人が成功できるように、社会システムを改善しようとする方向に意識は向かうだろう。それは、アタリくじを引いた者だけではなく、ハズレを引いた者にとっても大きな利益になる。

〈人生はくじ引き〉と考えることは、アタリくじをいかに多くしていくか、社会を見直すことにつながるのだ。

〈人生はくじ引き〉と考えることは社会を見直すことにつながる

が悪かったのならあきらめてふつうに生きろ──常見陽平『普通に働け』

努力や才能が報われないことはわかった。成功するかどうかは運次第であることも受けいれた。では、われわれはどうすればいいのか? 導き出される結論は「ふつうに生きろ」だ。

「ふつう」に生きようとする者が「ふつう」を知らない

だれもかれもが成功を求めているわけじゃない。まずはその点を本書で確認しておこう。

グローバル人材の時代、ノマドの時代などという「意識高い系」の言説がメディアに踊るが、多くの人が実は、就活生レベルの悩みを抱えて生きている。そして、実は「普通に生きたい、働きたい」と思っている。

これはなんら不思議なことではなく、多くの人が納得できる話だろう。努力はそれなりにしているつもりだが、それが実を結ぶことはおそらくない。ようするに「ふつうに」生きられればそれでいい——当ブログも含め、そう思っている人も多いのではないだろうか。

今さらだが、直視したい事実がある。それは、「世の中は普通の人で動いている」ということである。そして、「みんなが普通を目指している」

ふつう——これほどあいまいとした言葉もない。「ふつうに生きたい」と思いながら、「ふつう」をわかっていないのだ。

労働者である私たち自身が「普通の労働」「まともな労働」を理解していない

もちろん、「ふつう」を本格的に定義しようとすれば、高度な哲学的考察にまで足を踏みいれざるをえなくなるかもしれない。そこまでする余裕はいまはない。だから、ヒントのようなものを本書から拾っていこう。

「ふつう」の人が夢を見るのは愚の骨頂

本書では、『中小企業白書』に掲載された、日本の企業規模の割合を示すデータから次のように結論づける。

日本における「普通の人」というのは、実は中堅・中小企業に勤める人だということになる。

これまで見てきたように、私たち働く人々は、「キャリアアップ」や「ステップアップ」をめざすべき、すなわち「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という強迫観念のようなものを持たされている。だが、本書もほかの本と同様、そのような考えかたには懐疑的だ。

普通の人がすごい人を目指したり、新しい働き方に取り組もうとする努力は、一部を除き、たいてい無駄である。

さらに、本書の解説では、海老原嗣生氏(雇用ジャーナリスト)が興味深いことを言っている。

欧米では「ふつう」の人は、エリートなどめざさない。エリートとノンエリートの住みわけができているからだという。

欧米なら、普通の人は、エリートコースなど夢見たりしません。だから、偉人たちを「針小棒大」に取り上げても、感動説話にはなるでしょうが、それが一般化したり、ロールモデル化することはない。あくまでも違う世界の人たちなんです。

それが、日本は階級分化もなく、自分もいつかはあの世界へ、という甘い幻想を抱く「一層社会」

いささか我田引水的にこれを解釈するなら、ふつうの人なのに「精神的に向上心のあるもの」をめざすのは「馬鹿だ」ということになるのではないか。

もちろん、欧米がそうだからといって、ただちに日本もそうあるべきだということにならない。しかし、これまで見てきたように、成功するのは運のよい一部の恵まれた人々であり、そうでない「ふつう」の人が、甘い幻想を抱いたり、成功者をねたんだり、みずからの境遇に絶望したりするのは、こっちょうということだ。

では、どうすればいいのか? もちろん、本書を読んだだけで解決する問題ではない。「人はいかに生きるべきか」という有史以来、人類が悩みつづけ、いまだに答えの出ていない命題だからだ。

ただ、次の記述は足がかりにはなるかもしれない。

「仕事に過剰な期待をするな」「仕事で自己実現なんてウソだ」。仕事には情熱も必要だけど、それは金のためにやっているんだという醒めた気持ちも大事だと思う。

アタリくじを引けなかった「ふつう」の人の生きかたについては、パート2であらためて考えることにする。

ふつうの人が甘い幻想を抱くのは愚の骨頂。努力はたいていムダに終わる

自分の人生がハズレなら社会をアタリにすればいい──ギャビン=ニューサム『未来政府』

〈人生はくじ引き〉だとして、ハズレくじを引いてしまった者はどうすればいいか? ハズレを引いても幸福に生きていけるように社会をつくりかえることだ。

政府を自分の都合のよいものにする

ぎゃふん⑧』では、次のように書いた。これからは、〈自分自身〉と〈社会〉の両方を変えるべきだ、と*2。また、上で「なぜ〈人生はくじ引き〉になっているのか? おそらく社会がゆがんでいるから」と述べた。ここから導き出される結論は簡単だ。

*2:元になったブログ記事は「もしも日野瑛太郎『脱社畜の働き方』を自分の部下が読んできたら?

「〈人生はくじ引き〉にならないように社会をつくりかえる」

では、社会をつくりかえるにはどうするか? これも簡単で、政府を自分たちの都合のよいものにすればいい——それが政治であり、主権者たる私たちの義務といえる。

ただ、そんなふうにめざすべき方向は見えているが、実際にそこへ向かって歩んでいくのは難しい。私たちの持つ政府はあまりに強大だし、ひとくくりに「私たち」といってもさまざまな利益や思惑がある。歪みもそうとう進んでしまっているからだ。

そんななか、本書は未来の政府のありかたを説いている。ただし、著者はカリフォルニア州副知事で、「政府」はアメリカ政府(または州政府)を指す。とはいえ、そこで語られる思想は、日本の国家や地方自治体にも十分に通用するものだ。私たち自身の幸福追求のために参考になりそうな記述を拾っていこう。

政治をおこなうのは政治家ではなく私たち自身

昨年は総選挙が実施された。私たちは政党もしくは候補者から政策なりなんなりを提示され、それを吟味して、ベターと思える政党・候補者を選んだ。まるで私たちは仕事の“発注者”であり、“受注者”のプレゼンを見て、だれに発注するかを決めるコンペに参加したかのようだ。それは、選挙のありかたとして正しいようにも思える。しかし、肝心な視点が抜けおちてしまう。

私たちは政治家や政府が問題を解決してくれるという考え方から脱却しなければならない。現実問題として、自分たちの問題は自分たちで解決するという覚悟が必要なのだ。

つまり、「政治をおこなうのはだれか」という視点が抜けるのだ。「政治家」という答えは、つい最近まで正解だったかもしれない。だが、これからは「私たち」と言わなければならない。

〈政局〉と〈政治〉のちがいを知る

ぎゃふん③』でも述べたが、〈政局〉と〈政治〉は似ているようで異なる、というのが当ブログの持論だ*3

*3:元になったブログ記事は「〈政治〉と〈政局〉はちがう──アジェンダ・セッティングのこと」。

両者はどうちがうのか? 単純に言えば、〈政局〉は政界から自分に向かって定規をあてるが、〈政治〉は自分から政界に向かって定規をあてて線を引く。自分自身の利益を追求する視点から考えているかどうかが分かれ目となる。

政府は暮らしのすべてと結びついている。呼吸する空気、飲む水、ともす明かり、車を走らせる道路に至るまでだ。私たちは直接・間接に、1日も欠かさず政府のサービスと接している。しかし政府はナイキ社と違ってすべてのサービスに独自のロゴマークを付けることはできないので、人々はその事実に気づかない。

地球規模の環境破壊も安全保障の問題も、自分たちの生活に根ざしている。だが、そのことは実感しにくいし、気づきにくい。

今日の若者たちの間には強固な理想主義がある。彼らはボランティア活動にいそしみ、関わり合い、ネットワークを作る。

[中略]

ただ、彼らが考える公共心は、政治や政府とは完全に切り離されている。

人生のアタリくじを引いたか、それともハズレくじだったかは、私たちにとってまさに切実な問題だ。生き死にかかわる事柄といってよい。あきらめて死を待つのも一興だが、最後まであがくのが人生というものだろう。そのあがきのひとつとして、政府を自分自身が主体的に動かす。そんな視点を持つべきだ。

私たちにとって「政治に参加する」ことは、「選挙で投票する」ことだけを意味するのではない。

21世紀の市民参加とは議会選や大統領選に投票することではないだろう。最も身近なレベルの統治に個人的に参画することであるはずだ。

〈人生はくじ引き〉という歪みをただすための政府。それこそが21世紀型の「未来政府」というわけだが、それをどうつくりあげていくか。今後の研究課題としたい。

政治をおこなうのは政治家ではない。私たち自身だ

ギャンブルの必勝法で人生の勝ち組になれるか──谷岡一郎『ツキの法則』

この世界では、運やツキ、偶然を味方にする者が勝つ——。その真実がわかりかけてきた。つまり、人生は一種のギャンブルなのだ。ならば、ギャンブルの必勝法を学べばよいのではないか?

ギャンブルに必勝法はないが確実に負ける方法はある

ギャンブルに必勝法はあるだろうか? もちろん、これが愚問であることは言うまでもない。もしこの世に必勝法があるならば、参加者がみんなその方法を使ってしまい、ギャンブルが成立しなくなる。したがって、「ギャンブルに必勝法は存在しない」。

一方で「ギャンブルに確実に負ける方法」はある。ということは、いま人生の負け組を自覚している者は、知らず知らずのうちにその方法を実践してしまっていたのではないか。

一番早く確実に負けてしまう賭け方とは何か。それは、倍率の低い馬券(本命)を多めに、倍率の高い馬券(穴)を少なめに買うことである。

この法則を人生に置きかえるとどうなるだろうか。「倍率の低い馬券(本命)」とは、多くの人が勝つと考えている馬、すなわち「ばんじゃく(とされている)生きかた」になるだろう。一般的には、偏差値の高い大学に入り、有名な大企業に就職して、身をにして働き、それこそ「キャリアアップ」をめざす、といった生きかただろうか。まさに「精神的に向上心のもの」の人生だ。

しかし、ギャンブルの必勝法(必法)の観点からいえば、先の引用文のとおり、必ず負ける方法なのだ。

「いや、それはおかしい。この世のなかは盤石な生きかたをしている人がほとんどだ。その人たちがみんな『負け組』ということになってしまうではないか」。そんな反論もあろう。

ポイントは「負ける」のとらえかたにある。

この操作[引用者注:前述のような盤石な賭けかたをすること]はどれが当たっても少しだけプラスになる(「どれが当たっても収支がマイナスになる」ということはおきない)という点でなんとなくいい方法だ、と納得しまいがちであるが、逆に胴元にとっては望ましい客のタイプである。勝つときは少額で、負けるときは大きく負けてくれるのだから。

「人生はギャンブルである」と考えた場合、勝つか負けるかの二者択一ではなく、「どのくらい勝つか(負けるか)」と、勝ちかた(負けかた)に幅があるのだ。つまり、盤石な生きかたは、仮に勝ち組になったとしても、その見返りは小さく、反対に負け組になってしまったら、失うものが大きい、ということだ。

まさに「精神的に向上心のものは馬鹿だ」というわけだ。

負ける可能性を低くする賭けかた

では、負ける可能性の低い賭けかたとは、どんなものだろうか。

最初少しずつ賭けていて、最後に大きく賭けるやり方は、これまでの議論から見て、大きな勝利を手にする可能性の高い賭け方であることがおわかりいただけるものと思う。

たとえば、前半にそこそこ儲けを出し、最終レースに全部つぎこむ、という賭けかただ。

これを人生に置きかえるなら、20〜30代ぐらいで、「どちらかと言えば負け組ではない」ぐらいの小さな成果を出しながら、チャンスをたんたんと狙い、40〜50代ぐらいで一発逆転の賭けに出る、という戦略になるだろうか。

ただし、最後のレースで10万円分の賭けを行なって負けたとき、そこで「10万円負けた」と考える人はこの種の一発勝負はやめる方が良い。負けてもそこで「ああ、(最初の手持ち金である)1,000円すった」と思える人は心からギャンブルを楽しめる人である。

ようするに、人生の終盤で一発逆転を狙うにしても、それで必ず勝つ保証はないのだから、「失敗してもともと」と考えるべきということだ。ここでも「向上心」など持たないほうがよいという結論が出る。

ただし、一発逆転を狙うには、その時点で「どちらかと言えば負け組ではない側」に入っていなければならない。最後に賭けをしようにも、手持ち金の余裕がなければ無い袖は振れないからだ。

これまで見てきたように、そもそも「どちらかと言えば負け組ではない」側に立てるかどうかは、まさに運次第であり、当然ながらだれもが組みたてられる人生設計ではない。

人生もなかばにさしかかり、「負け組」「どちらかと言えば勝ち組ではない側」になってしまった者はどうすればいいのか? 一発逆転の賭けをしても確実に勝つ方法は存在せず、賭けをする“手持ち金”もないのなら、ギャンブルから撤退するしかないだろう。

人生というギャンブルから降りるにはどうすればいいのか?

逆説的だが、「人生はギャンブルである」という考えを捨てることだ。つまり、人生で勝負をしない。「精神的に向上心のないもの」をめざすのだ。

人生がギャンブルの世界では、盤石な生きかたは確実に負ける

最終的な目標は〈人生はくじ引き〉からの解放

「精神的に向上心のもの」が必ずしも成功するとはかぎらない。人が成功するには、想像以上に運のよさが必要だ。この真実を端的に表現すると〈人生はくじ引き〉になる。

〈人生はくじ引き〉になっている理由は、社会がゆがんでいるから。〈人生はくじ引き〉という認識がなければ、社会の歪みを見極めることができない。つまり、〈人生はくじ引き〉と考えることで、社会をよりよい方向につくりかえていこうという意識が働くのだ。それは社会で生きるすべての人々の利益になる。〈人生はくじ引き〉はけっして戯れ言ではない。

もちろん、〈人生はくじ引き〉にならないよう社会システムを機能させるのは簡単ではない。ただ、そのシステムを操作するのは私たち自身と考えることは、ひとつのとっかかりだ。

その一方で、個人レベルでは幸福追求のために、〈人生はくじ引き〉という価値観から解放されること、すなわち「精神的に向上心のないもの」をめざすことが究極の目標になる。

ぎゃふん工房がつくるZINE『Gyahun(ぎゃふん)』

この記事は、『ぎゃふん⑨ 精神的に向上心のあるものは馬鹿だ』に掲載された内容を再構成したものです。

もし『Gyahun(ぎゃふん)』にご興味をお持ちになりましたら、ぜひオフィシャル・サイトをご覧ください。

『Gyahun(ぎゃふん)』オフィシャル・サイト

ぎゃふん工房(米田政行)

ぎゃふん工房(米田政行)

フリーランスのライター・編集者。インタビューや取材を中心とした記事の執筆や書籍制作を手がけており、映画監督・ミュージシャン・声優・アイドル・アナウンサーなど、さまざまな分野の〈人〉へインタビュー経験を持つ。ゲーム・アニメ・映画・音楽など、いろいろ食い散らかしているレビュアー。中学生のころから、作品のレビューに励む。人生で最初につくったのはゲームの評論本。〈夜見野レイ〉〈赤根夕樹〉のペンネームでも活動。収益を目的とせず、趣味の活動を行なう際に〈ぎゃふん工房〉の名前を付けている。

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〈ぎゃふん工房〉はフリーランス ライター・米田政行のユニット〈Gyahun工房〉のプライベートブランドです。このサイトでは、さまざまなジャンルの作品をレビューしていきます。

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