近年まれに見る恐ろしさだ。しかし、この恐ろしさを伝えられるか自信がない。私の表現力が足りないわけではない。あなたの理解力や感受性が低いわけでもない。「恐ろしさを伝えられない」ことそのものに本作の恐怖があるのだが、本作の真髄が伝わるかどうかはあえて気にせず、とりあえず本作の魅力について語っていきたい。
この番組は愉快なバラエティですか?
本作は、テレビ東京の放送69年を記念して制作された番組だ。昔のテレビ番組が録画されたテープを視聴者から募り紹介していく。
しかし、それはあくまで表向きの説明であり、実際はそんな趣旨の番組ではないことが早々にあきらかになる。本作は愉快なバラエティ番組を装った、いわば“心霊ドキュメンタリー”なのだ。
視聴者から寄せられたビデオテープの映像が紹介されるが、ただただ不気味。はっきりと幽霊とおぼしきモノが映りこむわけではないが、異様な映像であることはまちがいない。
これだけでも十分に恐ろしいともいえるし、映像の不気味さに魅力を感じる人も多いと思うが、心霊映像(らしきもの)は、ただの“撒き餌”にすぎない。
出演者のいとうせいこう氏、タレントの井桁弘恵氏、アナウンサーの水原恵理氏は、映像の異様さにはまったくふれない。
そこに違和感……いや不安をおぼえながら番組を観つづけていると、「不気味な映像」とやらが可愛く思えるほど、恐るべき事態が進行していく。
私の〈言葉〉はあなたにわかりますか?
どのような事態が進行していくか。ネタバレを避けたいのと、前述のとおり恐ろしさを説明する自信がないため、ここでは「恐ろしい」と感じた理由を述べていく。
異様な映像を観て私は「異様」と思ったが、もしかすると出演者たちにとっては「異様」ではないのかもしれない、と疑念がわく。少なくとも番組では「異様」な映像としてあつかっていない。
となると、じつは「異様」と思っている自分のほうがおかしいのではないか、つまり狂っているのは自分ではないか、と自問自答が始まる。
さらに、この考えを推し進めると、私たちが持っている〈概念〉や〈言葉〉といったものは、ほんとうに他人と共有されているのだろうか、という疑問に行き着く。
「異様」という〈言葉〉を用いたとき、「異様」を表すものとしてほんとうに機能しているのか、その保証がまったくないことに気づかされる。
身近な例を挙げるなら「リンゴ」でもいい。私が「リンゴ」と書いたとき、それはあなたの「リンゴ」と同じだろうか(もちろん、色や形や大きさの違いはあるにしても)。
私たちが日常生活を送るうえでは、〈概念〉や〈言葉〉は共有されているように思える。いや、そう信じたいし、みんなが信じているから世のなかはうまく回っている。
ところが、それは結果的に、あるいは奇跡的に共有されたように見えるだけで、実際は一部しか、場合によってはまったく共有されてはいないのではないか。その疑念が拭いされない。
あなたはほんとうに存在していますか?
〈概念〉や〈言葉〉が他人と共有されていないかもしれないという疑念。そこから生まれる恐怖とはなにか?
ひとことでいえば〈孤独〉。
この世界には、じつは自分ひとりしか存在していない、という虚無のようなもの。
〈概念〉や〈言葉〉を他人と共有していないのであれば、つまり共有しているのは錯覚にすぎないのであれば、他人の存在もまた錯覚ということになる。他人の存在を保証するものもないからだ。
もちろん、日常生活において他人の存在の〈たしからしさ〉など気にする必要はない。他人の存在に疑問を持ってもなんの利益もない。むしろ有害だ。だったら気にしないほうがいい。それでこれからも問題なく人生を送れる、ように思える。
だが、本作を観てしまった私とあなたは、否応なしに他人の存在、ひいては自分の存在に疑念を持たざるを得なくなってしまう。他人と自分に「虚無」を見出してしまう。そこに本作の恐ろしさがある。
そして、その「恐ろしい」という〈概念〉や〈言葉〉がほんとうにあなたに伝わっているか、どうあがいても確証を持つことはできない。
コメント