『悪魔と夜ふかし』の視聴率アップに尽力する悪魔に感心している場合ではない

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悪魔と夜ふかし』は、テレビ番組の視聴率アップのため悪魔を呼び出す。悪ふざけのホラー映画で一見すると怖くないのだが、あることに気づくと恐怖感に襲われる。本作の恐ろしさはどこにあるのか? 多くの人が見過ごしがちな本作の魅力を読み解く。

[なるべくネタバレなしで語ります。観賞前でもお読みいただけます]

人を食ったホラーは一見すると怖くないが……

「悪魔に取り憑かれた少女が〜」といった類いの映画、すなわち〈悪魔憑き〉ものは、それこそ『エクソシスト』(1973年)以来、ゴマンとつくられている。ホラーのサブジャンルのひとつを形成しているといってもいい。

本作はそんなありふりた題材を、「テレビ番組の視聴率アップのために悪魔をゲストに呼ぶ」という物語で料理した。たったそれだけのことで、俄然おもしろくなった。その点がじつに興味深い。

そもそも人を食ったような発想だ。「コンプライアンス? 知ってるよ。でも、そういうの信じないんだ」と言わんばかり。悪ふざけが過ぎる。不謹慎。反社会的。

だが、ホラー好きとして「こういうのが観たかった自分がいる」ことに気づく。本作は、そんなわたしたち鑑賞者の期待に十分に、いや十分すぎるほど応えている。

制作者がホラー作品をつくろうとしているのは間違いないが、一方で本気で怖がらせようとはしていない。それは「視聴率アップのため〜」などという物語設定からしてあきらかだ。

だから、あまり怖くない——観終わった直後はそう感じた。

しかしながら、ある発想に到達すると、薄ら寒いものが背中を走る。

本作に隠された戦慄の真実とは?

視聴率アップのため道徳や倫理は“解除”

本題に入る前に、本作がなぜこれほどまでにおもしろいのか分析してみよう。

本作は、ほぼ全編がテレビ番組の映像という体裁になっている。だから、余計な要素が入っていない。不要な部分を削ぎ落とし、90分の映画として仕上げている。バックグラウンドなどをつぎ足して、2時間の作品にもできただろうが、あえてそうしていない。これはなかなかの英断だ。

あくまでテレビ番組だから、エンターテインメントショーの純度が高い。視聴者(お茶の間)をたのしませようという気概が感じられる。

映画の鑑賞者であるわたしたちも、劇中の視聴者とおなじように、娯楽番組として本作を堪能できる。

本作の魅力として、まずはその点を指摘できるだろう。

「いや、でもその番組って、視聴率がふるわなかったんでしょ? そんなの観ておもしろいのかな?」というツッコミもあるかもしれない。

それは杞憂だ。(劇中の設定上)低視聴率だったことは事実なのだが、本作は高視聴率を叩き出した回を映画化したものなのだ。

低迷していた視聴率を挽回するために、番組のスタッフが「やぶれかぶれ」の精神で、道徳的・倫理的な“リミッター”を解除して取り組んだ回が本作だ。

捨て身の精神が吉と出たわけだ。

さらに興味深いのが、結果的に視聴率アップに悪魔さえも貢献していること。悪魔も“リミッター”を解除している。スタジオにいた人たちには災難だが、スクリーン(画面)のこちら側にいるわたしたち鑑賞者は安全な場所から高みの見物をきめこむことができる。右往左往する人たちの様子を嗜虐的な気持ちで眺められる。

この点も本作をおもしろくしている要素のひとつだ。

悪魔が現れたのはほんとうに「昔のテレビ番組」か?

今回の本題はここからだ。あくまで当ブログの勝手な想像だから、ネタバレではないと思うのだが——。

先ほど「結果的に視聴率アップに悪魔さえも貢献している」と述べた。これは冗談半分で茶化してみたのだが、あとの半分は本気。ホラーとしての恐ろしさが眠っているのではないかとも思うのだ。

つまり、視聴率アップに貢献することが「結果的」ではなく、じつは悪魔の「意図的」だとしたら……?

劇中の描写では、視聴率アップのために悪魔は無理やり公の場に引っ張り出された格好になっている。いわば悪魔は“被害者”で、番組はその仕返しをされた、といった図式になっているように思える。

しかし、番組に出演させられることこそが、じつは悪魔の策略だったとしたら……?

くりかえすが、これは当ブログの妄想で、劇中ではっきりとは描かれていない。

一方で、先に「不要な部分を削ぎ落とし、90分の映画として仕上げている」と述べたが、その削ぎ落とされた部分に、悪魔と番組との“因縁”を嗅ぎ取ることもできる。映画ではカットされているものの、その残骸は残っているような気がするのだ。

そう考えた場合、興味深い表現がある。

悪魔が引き起こす超常的な現象は、もちろんスタジオで起こっているのだが、悪魔自身はその場にはいない感じがする。本作の制作者の意図はわからないが、鑑賞者のひとりとしては、悪魔は“異次元”に存在しているような表現になっているように見える。

さらに、劇中の描写を思い返してみると、本作は昔のテレビ番組の映像という体裁だから、画面の比率が4:3になっている。ところが、(少しネタバレになるが)この比率が変わり、横長のシネマサイズになる場面がある。

これはなにを意味するのか? 単純に考えれば、シネマサイズになる部分は「テレビ番組の映像ではない」ことを表現しているのだろう。ここで妄想を膨らませると、テレビ番組という虚構の外側、すなわちメタフィクション的な世界を表していると考えられないだろうか。

先の「悪魔は“異次元”に存在している」点を含めると、悪魔はメタフィクションの世界にいるのではないか。そんな発想にたどりつく。

この発想をさらに推し進めるなら、悪魔は「昔のテレビ番組」の中に現れたのではない。本作の鑑賞者であるわたしたちがいるこの現代にやってきたのだ! などと想像できないだろうか。

その結論に達したとき、ひとつ気づいたことがある。

悪魔に取り憑かれている少女がやけにカメラの位置を気にしていたのが印象に残っている。ときどきカメラ目線になることもあった。

そのとき少女(悪魔)は、劇中のテレビ視聴者を見ていたのではなく、本作の鑑賞者であるわたしたちを見ていたのではないだろうか……。

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夜見野レイ

このサイトでは、ホラー作品のレビューを担当。幼いころ、テレビで最初に観た映画がホラー作品だったことから無類のホラー好きに。ガールズラブ&心霊学園ホラー小説『天使の街』シリーズをセルフパブリッシングで執筆。ライターとしては、清水崇・鶴田法男・一瀬隆重・落合正幸・木原浩勝の各氏にインタビュー経験を持つ(名義は「米田政行」)。

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〈ぎゃふん工房〉は瑞乃書房株式会社 代表取締役 米田政行のプライベートブランドです。このサイトでは、さまざまなジャンルの作品をレビューしていきます。

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