死はだれにでも訪れる。やがて迎える死のために準備を整えていきたい。とはいえ、人が死んだらどうなるかなど、あらかじめ知ることはできない。そこで、このパートでも、フィクションを参考にしながら考えてみたい。もちろん、私たちが死んだあとにたどりつく場所の様子が正確につかめるわけではない。それは先刻承知。だが、どうやって“死ぬまで生きるか”。そのヒントぐらいにはなろう。
このパートでは、作品の批評・研究を目的として心霊映像のキャプチャー画像を掲載しております。“霊障”を受けやすいかたや気の進まないかたは閲覧をご遠慮ください。
ご覧いただいた後、不可解な出来事や霊的現象が起きた場合、こちらでは一切の責任を負いかねます。
もくじ
死んで霊になったあとこの世とどうつながる?──『ほんとにあった!呪いのビデオ』
私たちが死んで〈霊〉と呼ばれる存在になったとき、この世に生きる人や動物、物に対してなんらかのつながりを持つことはできるのか? その点を心霊映像から探ってみよう。
恨みを抱いて“あの世”に行けば存在感を示せる
最初に紹介するのは、「誰がいなくなった?」というタイトルの心霊映像。肝試しに廃虚を訪れたときに撮られたものだ。
霊感があるという友人にカメラを持たせ、ひとつの不気味な部屋へと進ませる。映像では、うしろから聞こえていた同行者たちの声が突然消え、思わず振りむくと同行者の姿も見えなくなっている。
そして、カメラを動かすと、自分の目の前に〈なにか〉が立っているのに気づく。
それは、とてつもなく恐ろしい形相をした女とおぼしきモノ。
ややネタバレになるが、強い恨みを抱き、ここで焼身自殺を遂げた女性の“あの世”の姿だ。
撮影者の目の前に現われた〈女〉の存在感は圧倒的だ。強い恨みを持って死んだモノは、念の強さに応じて、生きている人に存在感を示すことができる、ということかもしれない。
『ほんとにあった!呪いのビデオ55』に収録 Ⓒ2013 NSW/パル企画
カメラを通じて姿を見せることができる
次に「新年鍋」という作品を紹介する。家族で鍋料理を楽しむ様子を撮影した映像で、およそ奇怪なモノが現われそうもない雰囲気だ。撮影を終えた撮影者がカメラをテーブルの上に置く。すると、ヤカンがアップになる。どうやらスイッチを切りわすれたらしい。
そこに、不可解なモノが映っている……。
部屋にいただれかがカメラのほうを覗きこんでいるようにも見える。だが、この世のモノでないことは、その風貌からしてあきらか。しかも、奇妙な〈人影〉はひとつではない。複数が映っているのだ。
撮影者を含め、家族がそのことに気がついている様子はない。つまり、カメラにだけ記録された怪異だ。
〈人影〉がなぜそこに立っていたのか、そしてなにをしようとしているかは一切不明。やがてどこかへ立ちさるようなふるまいを見せると、順番に〈人影〉は消えていく。
“あの世のモノ”は、生きている人に直に姿を見せることはできない。しかし、こうして間接的に存在を示すことができる。カメラのような機器になら姿を残すことができるらしい。
とはいえ、相手にわかるように、はっきりとしたメッセージを伝えられないのは悲しい。
『ほんとにあった!呪いのビデオ15』に収録 Ⓒ2005 NSW/パル企画
この世で生きる人に悪意を持てば物を動かせる
「ベッドの下 開かずの部屋」では、驚くべき現象が起こる。
投稿者は、夜寝ているとベッドの下から奇妙な物音がするため、様子を探ろうとカメラをしかけた。撮影した映像を確認すると、男とおぼしき顔が現われ、カメラのほうを睨む様子が映っている。さらに……。
その直後、カメラが倒されるのだ。
偶然に倒れた——という可能性も否定はできない。しかし、〈そいつ〉が意図的に倒した、と考えるほうが自然な気がする。
つまり、〈霊〉のような存在になっても、物にふれることができる。それをこの映像が証明しているのだ。
ただ、なぜそんなことをしたのかがわからない。撮影していることへの抗議の表われなのか。投稿者に対して、好意ではなく悪意を持っていることはまちがない。
私たちも、死んだあと生きた人に悪意を抱くことで、この世にある物も動かせるようになるのかもしれない。
『ほんとにあった!呪いのビデオ51』に収録 Ⓒ2013 NSW/パル企画
カメラに働きかけてデジタルデータに想いを残せる
「姿を見せる」「物を動かす」といったことは、生きている私たちがふつうにおこなえる動作だ。それらは死んだあともできることがわかった。では、次のような例はどうだろう?
「肝試し 後編」には、投稿者が公園で肝試しをしているときに遭遇した異変が記録されている。映像の途中に、異様に大きなノイズ音と、奇妙な画像が挿入されていたのだ。ノイズ音からは死者の“メッセージ”らしきものも聴きとれるし、画像はその人物の“目”とおぼしきものが映っている。
もちろん、撮影者にそんなものを撮った覚えはない。つまり、“あの世のモノ”がカメラに働きかけ、デジタルデータとして“想い”を残したことになる。
私たちがカメラにふれることなく、そのような映像を撮ることはできないのだから、“あの世のモノ”は、生きている私たちよりも高い能力を手にしていることになる。これはなかなか意外な真実といえるだろう。
『ほんとにあった!呪いのビデオ35』に収録 Ⓒ2009 NSW/パル企画
強い念の持ち主なら時空も操れる
私たちがこの世でできないことが、死んで〈霊〉のような存在になれば実行できる。そんな例をもうひとつ紹介しよう。
「タイムラプス」は、その名のとおりタイムラプス(低速度撮影)で撮影された映像。長い時間をかけて連続して撮った画像を動画のように連続で再生すると、早回しをしているような映像になる。
そんな映像に、ふと人影らしきモノが映りこむ。しばらくそこにたたずんでいるらしい。だが、よく考えるとこれは奇妙だ。高速で再生しているのだから、その人物は何時間もその場でじっとしていたことになる。
次の瞬間、その人物(女のように見える)がカメラに近づいてくる。「ベッドの下 開かずの部屋」に現われたモノとおなじように、カメラの存在に気づいているようだ。もしかしたら、タイムラプスで撮影していることも知っていたのかもしれない。しかも、それを逆手にとって行動しているようにも見える。
“あの世”に行けば、この世とは時間の感覚が異なるのだろうか。ことによると、時空を操ることも可能なのではないか。
やはりネタバレになるが、ここに現われた〈女〉は、「誰がいなくなった?」で映りこんだのとおなじ人物らしい。
人を超越した能力を持つには、それだけ強い恨みが必要ということなのだろうか?
『ほんとにあった!呪いのビデオ55』に収録 Ⓒ2013 NSW/パル企画
おぼろげながらも生きた人間と会話ができる
「廃病院」は18年ほど前に公開されたやや古い心霊映像。ここにも興味深い現象が映し出されている。
若者たちが肝試しに行った際、道に迷い、廃病院に入りこむ。すると、彼らの前に奇妙な人物が現われ、話しかけてくる。だが、ふと気づくと、いつの間にかその人物は消えている。立ちさったところはだれも見ていない。〈そいつ〉がこの世のモノでないことを悟った撮影者たちは、その場から逃げ出すのだった……。
ここで注目すべきなのは、ごく短時間とはいえ、撮影者たちが“あの世”の存在と会話をしている点だ。映像には、残念ながら〈そいつ〉の姿は映っていない。だが、声は残っている。彼らの耳にも聞こえ、ビデオにも記録されたわけだ。
映像から聞こえる声は現場で聞いたものと異なる、と撮影者は証言する。だが、なにを言っているかは、おぼろげながらわかる。死んだあとも生きた人間と会話ができる。これは大発見といえる。
『ほんとにあった!呪いのビデオ6』に収録 Ⓒ2000 NSW/パル企画
私たちが死んだあとどこに連れていかれるか?──『闇動画』『封印映像』『ほんとにあった!呪いのビデオ』
私たちが死んだあと訪れる場所はどんなところなのか? それを知る術はないが、いくつかの心霊映像から想像することはできる。そこではどんな世界が描かれているのか?
死んだあとはおなじ苦痛と恐怖を繰りかえし体験する
まずは「死の円環」と題された映像を観てみよう。幽霊が出ると噂される廃校を若者たちが訪れる。怪異のきっかけは、ある教室で「死の円環げーむ」と落書きされた黒板を発見したこと。そこに記された名前は撮影者の友人とおなじだった。訝りながらも探索をつづけていると、少しずつ奇妙な出来事が起こりはじめる。そして、窓から外の様子をうかがうと、“自分たち”がこの校舎へ入っていく様子を目撃する……。
このとき撮影者が死んでしまっているのかどうか明確ではない。だが、“死後の世界”に近い場所に迷いこんでしまったことはまちがいない。そこでは時が何度も繰りかえされているらしい。ということは、苦痛も永遠に繰りかえすということだ。呪縛から逃れる方法はあるのか? あるのかもしれないが、うまく見つけられるとはかぎらない。そこに“あの世”の恐ろしさを感じる。
『闇動画14』に収録 Ⓒ2016『闇動画』製作委員会
“あの世”の使者に死へ誘われたとき苦痛を味わう
「ラブホテルの怨念」は、ラブホテルの一室に残されたビデオカメラの映像だ。撮影者のお相手とおぼしき女性が映っているが、突然、恐ろしい形相に変わり、不気味なうなり声を上げはじめる。さらに、別の〈女〉の姿が映し出され、そこで映像は途切れる。
本作では別の映像も紹介される。先の映像を撮影している様子を異なるアングルでとらえたもののようだ。なぜそんな映像が存在しているのかは謎。先の映像を撮影している男にカメラが近づくと、男が奇声を上げると同時に、映像が不気味に乱れる……。
ふたつめの映像は、男が死の世界に誘われる瞬間を映し出したものと考えられる。しかもカメラで撮ったものではなく、異形の目を通してとらえられた光景ではないかと思われる。男の醜く歪む表情と、苦痛に満ちた叫び声は、死の瞬間に味わう“地獄”を想像させる。こんなふうに特別な死にかたをした場合の体験なのか、それとも死を迎えた者が必ず通る道なのか……。そこに戦慄を覚えずにはいられない。
『封印映像5 ラブホテルの怨念』に収録 Ⓒ2011 AT ENTERTAINMENT
“あの世”には憤怒と恐怖、絶望が漂っている
「ニューロシス」は、高校生の女の子ふたりが廃虚となった遊園地を探索しているときに撮った映像。ミラーハウスのようなアトラクションに足を踏みいれたとき、その現象は起こる。
女とその子どもとおぼしき人物が口げんかをしているような声が聞こえはじめる。その場にいたというより、スピーカーのようなものから流れてくる音声にも思える。だから、必ずしも“心霊現象”ではないのかもしれない。機器の故障と解釈する余地はある。
仮に、“あの世”の様子がスピーカーを通じて聞こえてきたとする。尋常でない怒号、罵倒、そして悲鳴。そこにはとてつもない憤怒と恐怖、絶望が漂っている。ただの親子の言いあらそいではない。あたかも異界では、そういった負の感情しか持てないかのようだ。
撮影者の女の子たちがそうしたように、映像を観る私たちも耳をふさいでこの場から逃げだしたい衝動に駆られてしまう。
『ほんとにあった!呪いのビデオ15』に収録 Ⓒ2005 NSW/パル企画
“あの世”は安住の地ではなく恐怖と絶望しか残らない
最後に紹介するのは、当ブログがこれまで観たなかで「最恐」と評価せざるをえない「不気味な女」だ。
内容は、引っ越したばかりのマンションの様子をケータイで撮影していると、部屋の片隅に〈不気味な女〉が立っている、というもの。本作の恐ろしさはただごとではない。恐怖のポイントはふたつある。
ひとつは、〈不気味な女〉がこの部屋の侵入者ではなく、“先住者”のように思えること。あとからやってきたのは投稿者の女性であって、部屋の主はじつは〈女〉のほうなのだ——と思わせるほどの貫禄がある。となると、〈女〉が発しているのは強烈な拒絶の意志。「この部屋から出て行け」。言葉にしなくても、〈女〉の負の感情が痛いほど伝わってくる。
もうひとつは(こちらのほうがより恐ろしいのだが)、〈女〉のいる異界がけっして安住の地とは思えないこと。“あの世”は苦痛に満ち満ちている。〈女〉のいでたちは、そんな想像を観る者にさせてしまう。
人は死んだあとどんな場所に連れていかれるのか? 図らずもこの〈女〉が教えてくれているのかもしれないが、もはや恐怖と絶望しか残らない……。
『ほんとにあった!呪いのビデオ25』に収録 Ⓒ2007 NSW/パル企画
“あの世”は心霊映像で表現される世界ではない
心霊映像を分析すると、“あの世のモノ”は、この世に姿を現わすだけでなく、物を動かしたり、デジタルデータに手を加えたり、時空を操ったりできる。また、“あの世”には怒りや恐怖といった負の感情が渦巻いている。そんな真実がわかる。
ただ、心霊映像のなかには、「煙のようにモヤモヤとした不思議なモノが画面の端に映る」「おぼろげながら不可解な声が聞こえる」といった地味な内容のものも多い。じつはそれこそがホンモノの“あの世のモノ”の姿なのかもしれない。しかし、そういった作品はおもしろくない。
つまり、“あの世のモノ”が特別な能力を持っているように描かれるのは、そのほうが怖いからにすぎない。ここで取りあげた心霊映像は、“死後の世界”の真実を表現した作品ではない。それらは、あくまでエンターテインメント、嘘っぱちの作りものなのだ。
人は死んでも心霊映像で表現されるような存在にはならない。そのことはアタマの隅に置いておきたい。
ぎゃふん工房がつくるZINE『Gyahun(ぎゃふん)』
この記事は、『ぎゃふん⑨ 精神的に向上心のあるものは馬鹿だ』に掲載された内容を再構成したものです。
もし『Gyahun(ぎゃふん)』にご興味をお持ちになりましたら、ぜひオフィシャル・サイトをご覧ください。
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