ぼくの『エヴァ』考察との向き合いかた
ここからは、『エヴァ』の考察をおこなっていくにあたって、ぼくの基本的な方針や作品への向き合いかたを述べていきたい。あなたにとって有益な情報になるとはかぎらないものの、ぼくのスタンスを知っていただいたほうが、ぼくの『エヴァ』考察の説得力が高まると考えるからだ。
表現をそのまま受けとる〈シャシン主義〉
『エヴァ』という作品を鑑賞するとき、あるいは謎の考察をするときは、〈シャシン主義〉という態度で臨むことにしている。〈シャシン主義〉は別の作品のレビューでも説明したが、内容は次のとおりだ。
〈シャシン主義〉の「シャシン」とは「活動写真」のことで、とどのつまり映画のこと。〈シャシン主義〉の真髄を端的に述べれば、
映画で表現されているものをあるがままに受けとる
ということだ。
『旧劇場版』の中盤に表示されるテロップにも「シャシン」という言葉が登場している。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』
©カラー/EVA製作委員会
映画の制作陣は作品というカタチで〈表現〉や〈描写〉をおこなっているのであって、説明・説教・弁明・折伏などをしたいわけではない。そんなふうに考えるのが〈シャシン主義〉だ。
この〈シャシン主義〉にはどんなメリットがあるか。
たとえば、宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』は、一般に「難解」とされている。そのため人によっては「つまらない」「駄作」「宮崎監督は衰えた」などといった感想を抱くかもしれない。しかし、〈シャシン主義〉にのっとって「表現されているものをあるがままに受けとる」ことに撤すれば、『もののけ姫』などに匹敵する傑作と評価することも可能になる。というのは、もしも「難解でワケがわからない」「だからつまらない」と思ったのなら、それは鑑賞者が理解・解釈・考察・解明・謎解きの類いをしようとしたからであって、本作を難しくしているのは制作陣ではなく、あくまで鑑賞者だからだ。
宮崎作品の中でも『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』などとおなじくらい、ぼくは堪能することができた。

『君たちはどう生きるか』©2023 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli
ここであなたは「あれれ?」と違和感をおぼえたかもしれない。
「アンタ、いまから『エヴァ』の謎解きをしようとしてるんじゃなかったの? それはいいの?」
御意。まったくもってあなたは正しい。〈シャシン主義〉を徹底すれば、『エヴァ』考察など忌むべき所業となる。
ここでぼくの申し開きに耳を傾けていただきたい。
まず、『エヴァ』も画と音で表現されるアート形式であるわけだから、『君たちはどう生きるか』と同様に、第一義的には「表現されているものをあるがままに受けとる」べき作品である、という点があげられる。
『エヴァ』には、にわかには——いや、いくら考えても意味の理解できない描写がふんだんに盛り込まれているが、理解ができなかったとしても、十分にたのしめる作品であることはまちがない。「なんだかよくわからないけど、面白かった」といった感想を抱いたのなら、それは理想的な(制作陣が想定している)状況なのだ。本作の鑑賞者の標準的な鑑賞態度といえるだろう。
とはいえ、『君たちはどう生きるか』の制作陣は観る者に考察や謎解きすることを求めていないと思われる一方で、『エヴァ』は、前述のとおり難しいことを考えずにたのしめるようにつくられているものの、考察や謎解きをすればより深く味わえる作品であることもたしかだ。
その点は、これを読むあなたには釈迦に説法のように思われるが、たとえば次の発言が参考になる。
庵野秀明監督が『旧劇場版』の裏話を明かす対談で、『ガンダム』シリーズのように設定をつくりこんでしまうと「息が詰まる」ため、あえて穴を開けてあると語る。
庵野 「そこは自分達で考えて遊んでみてくれ」という風にしてあるんです。だから、バーチャルな世界をひとつ、いかにもそこに人がいるような感じに作っておいてですね。さらに、そこの世界観の中にポツポツと穴を開けておくんですよ。で、その穴を埋める作業というのは、自分達でもできるようにしておいた。『セーラームーン』が受けたのは、そこだと思うんです。圧倒的に緩い世界観じゃないですか。だからファンが付け入る隙が山のようにあったと思うんですよ。
『アニメスタイル 第①号』(美術出版社)
この庵野監督の発言は『旧劇場版』の話であるが、『新劇場版』にも問題なくあてはまることに、あなたにも異存はないだろう。
したがって、〈シャシン主義〉は、『エヴァ』考察の文脈で再定義する必要がある。具体的には次のような原則を定める。
第一原則:劇中で表現されているもののみが〈事実〉である
『エヴァ』の物語における〈事実〉とは、劇中で表現されているもののみ。そう考えるのが〈シャシン主義〉の第一原則だ。
この原則をあなたに理解していただくため、例をあげてみよう。
『Q』において、冬月コウゾウは大学で学問を教える職業に就いていたことが明かされる。これは次のような描写があるため〈事実〉と断言できる。
旧姓は綾波ユイ
大学では私の教え子だった『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
©カラー
では、冬月はどんな学問を教えていたのか? 過去のぼくの考察では、「形而上生物学」だと推理した。しかし、そのような描写は『新劇場版』に存在しない。したがって、これは〈事実〉ではない。
ぼくが冬月の専攻を「形而上生物学」とした理由は『旧劇場版』を参照したからだ。しかしながら、たとえ『旧劇場版』で描写されていたとしても、そのことを理由に『新劇場版』においても冬月の専攻が「形而上生物学」であることが〈事実〉だとは考えない。あくまで『新劇場版』の劇中で表現されたものだけが『新劇場版』の〈事実〉となる*2。
〈考察〉の過程で画コンテや制作陣の証言などを参考にすることはあるだろう。しかし、それらを根拠に〈事実〉と認定することはしない。今回のぼくの『エヴァ』考察では、あくまでも『新劇場版』の描写のみを根拠とする。
この点を徹底したい。
*2:後述するように、ぼくは『新劇場版』と『旧劇場版』は、世界や物語がつながっていないと考えているため、『旧劇場版』の描写は『新劇場版』の〈事実〉にならない。
第二原則:劇中で表現されていないものは考察する必要がない
『新劇場版』で表現されていないもの、すなわち〈事実〉でない事柄は考察しなくてもよい。これが第二原則だ。
先の例でいえば、冬月の専攻について『新劇場版』では言及されていない。したがって、「冬月がなにを専攻していたか?」という謎を解明する必要はないわけだ。
ただし、「考察する必要はない」は「考察してはいけない」を意味しない。あとで述べるように、劇中で表現されていない事柄(〈事実〉でない事柄)について考察することそのものを禁じるわけではない。言うなれば、考察する対象について優先順位をつけるための原則と考えていただければいい。
さて——。
ここまでお読みになったあなたは、ぼくの大いなる矛盾にお気づきになっただろうか。コメント欄にクレームを書き込みたくなってウズウズいるかもしれない。
ぼくは今回の考察で「ゼーレは未来のゲンドウである」という結論にあなたを導こうとしている。しかしながら、そのような描写は『新劇場版』のどこにも見当たらない。つまり、第一原則により〈事実〉ではない。
では、ゼーレの正体については? ほのめかすようなセリフなどはあっても、直接的に表現されてはいない。やはり〈事実〉は示されていない。したがって、第二原則により、ゼーレの正体については〈考察〉する必要はない。
そもそも〈シャシン主義〉はぼくが言い出したことだ。『エヴァ』の物語を鑑賞する際に必ず守らなければいけない一般的なマナーというわけでもない。にもかかわらず、あえてそれに反したことをしようとしている……?
ぼくはいったいなにをしようとしているのか? 次の〈ファクション考察法〉でお答えしよう。
解釈によって真実が変わる〈ファンクション考察法〉
〈ファンクション考察法〉とは、『エヴァ』の物語世界の謎を解く際に用いるロジックのことだ(これもぼくの造語です)。
「ファンクション」を別の言葉に言い換えると「関数」。Excelなどの機能としてあなたにはおなじみかもしれないが、ここで連想していただきたいのは、学校の数学の授業で習うあの「関数」だ。
あなたは学校時代のことなど忘れ去ってしまっているかもしれないので、ここで“復習”しよう。数学の「関数」とは、「ある値を入力すると一定の規則にしたがって別の値を出力するルール(しくみ)」のことだ。図式化すれば、次のようになる。
値A → [関数] → 値B
ぼくはこれを『エヴァ』考察に用いたいと思う。すなわち「事実(=劇中の描写)を理論(関数)にしたがって解釈する」。これを〈ファンクション考察法〉とぼくは名づけて呼んでいるわけだ。
上記の図式を『エヴァ』考察にあてはめると次のようになる。
〈事実〉 → [理論] → 〈解釈〉
なぜ〈ファンクション考察法〉などというロジックを用いる必要があるのか。そのことをあなたに理解していただくために、次のようなたとえ話はどうだろう?
『エヴァ』考察では論理の逆流に注意
あなたは取引先との商談を終えると、成約への手応えを感じながら、一息つこうとカフェへ入る。運ばれてきたコーヒーを堪能していると、隣に座っていた男女が口論を始める。そんなシチュエーションを想像していただきたい。

photo by GYAHUN Koubou
隣の男女が「恋人同士」なら、口論は「痴話げんか」と〈解釈〉できる。男女が「兄と妹」なら「きょうだいげんか」。父と娘なら「親子げんか」となる。ここまでは問題なかろう。図式化してみよう。
事実:口論 → [理論:恋人同士] → 解釈:痴話げんか
事実:口論 → [理論:兄と妹] → 解釈:きょうだいげんか
事実:口論 → [理論:親子] → 解釈:親子げんか
では、隣で起こる口論を「痴話げんか」と〈解釈〉することで、男女を「恋人同士」と断定できるだろうか。あなたはすぐに「ちょっと待って。変だ」と異議を唱えるだろう。なぜなら、「痴話げんか」と〈解釈〉できるのは、男女が「恋人同士」である場合のみだからだ。男女は「兄と妹」かもしれないし「父と娘」かもしれない。そうなると口論の〈解釈〉も変化する。つまり、〈解釈〉を根拠に〈理論〉が正しいと断定するのは、論理の流れが逆転してしまっているわけだ。
「口論」という値を〈理論〉という[関数]に入力したから「○○げんか」という値が出力されたのであって、矢印の方向を逆転させて「○○げんか」を[関数]に入れることはできないのだ。
なぜこんな話をしているかといえば、『エヴァ』考察においては、往々にして論理の逆転(入力と出力の取り違え)が起こりがちだからだ。
たとえば、『破』の終盤に登場するカヲルは、次のようなセリフを言う。
今度こそ君だけは
幸せにしてみせるよ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』
©カラー
このセリフをきっかけに、巷では「ループ説」という〈理論〉がとなえられた。すなわち、『新劇場版』は『旧劇場版』がループした世界だというのだ(これを『旧劇場版』ループ説とでも呼ぼう)。
一方で、『旧劇場版』と『新劇場版』でループしているのではなく、『新劇場版』の中で循環しているとの説も提唱された(これを『新劇場版』ループ説としよう)。
『旧劇場版』ループ説をとれば、「今度こそ」は、『旧劇場版』の結末をふまえていると〈解釈〉できる。一方、『新劇場版』ループ説ならば、「今度こそ」は『Q』の悲劇をふまえていると〈解釈〉できる。図式にしてみよう。
事実:「今度こそ」 → [理論:『旧劇場版』ループ] → 解釈:『旧劇場版』の結末
事実:「今度こそ」 → [理論:『新劇場版』ループ] → 解釈:『Q』の悲劇
しかしながら、「今度こそ」が『旧劇場版』の結末をふまえていることを根拠に『旧劇場版』ループ説が正しいと断定することはできない。同様に、「今度こそ」が『Q』の悲劇をふまえていることを根拠に『新劇場版』ループ説が正しいと断定することはできない。それでは論理が逆転してしまう。先の口論の場合とおなじだ。
ようするに「『エヴァ』を〈解釈〉するための〈理論〉は人それぞれ」というごく簡単な話をしているだけだ。そこに絶対的な正しさなどない。どれも“正解”であり“不正解”なのだ。しかし実際は、自説こそが正しく他の人の説は誤っている断じ、相手を攻撃する例が見受けられた(ぼくの記事にも、わずかながらそんなコメントが寄せられた)。
しかしながら、それは『エヴァ』の鑑賞・考察のあるべき態度ではない。この点はあなたも賛同してくれるはずだ。
とはいえ、偉そうなことを言っているぼくも、過去の考察ではそのあたりのことにあまり自覚的ではなかった。そのため、自説が正しいと主張しているような記述もあったかもしれない。この場を借りてお詫び申し上げたい。
〈ファクション考察法〉でもっと『エヴァ』の物語を堪能できる
『エヴァ』考察においては、〈事実〉と〈真実〉を的確に区別する必要があることに気づく。
〈事実〉とは、前述のとおり「劇中で表現されているもの」。〈事実〉は誰がどう考えても〈事実〉と認定できるため(認定できるものでなければならないため)、〈事実〉は一通りしかありえない。
一方、〈真実〉とは、〈事実〉をそれぞれの理論(関数)で〈解釈〉したものだ。理論が変われば〈解釈〉も変わるため、ひとつの〈事実〉に対し、〈真実〉は何通りも存在することになる。〈真実〉は、人それぞれの〈解釈〉と言い換えてもいいだろう。
ここで、先ほどの問いに答えよう。ぼくはいったいなにをしようとしているのか?
まず〈シャシン主義〉は、『エヴァ』という作品を最大限尊重するという態度だ。制作陣に敬意を表すともに、文化的価値を作品に見出そうとする。と同時に、作品を自分自身の“財産”として守ろうとする営みでもある。
一方、『エヴァ』は観る者が物語や世界を“補完”する余地のある作品であることから、〈ファンクション考察法〉によって謎解きをおこない、より価値を高めようとする。
ある〈解釈〉に対し〈シャシン主義〉を厳密に適用し「〈事実〉ではない」という理由で十把一絡げに切り捨てるわけではない。劇中で表現されていないとしても、その〈解釈〉によって作品に深みが出ると思えるなら、〈事実〉でない〈解釈〉もときには許容していく。大切なのは、その〈解釈〉がどのくらい〈事実〉から飛躍しているか、その“距離感”を意識することだ。合理性のない過剰な「飛躍」を自重することだ。〈シャシン主義〉は〈解釈〉を排除するための規定ではなく、むしろ適度に許容するための規定といえる。
〈シャシン主義〉はいわば『エヴァ』に〈事実〉を求め、〈ファンクション考察法〉は〈真実〉を求める。〈シャシン主義〉は『エヴァ』の財産性を確保し、〈ファンクション考察法〉は感興性を高める。それら両者の相補性の巨大なうねりの中で、バランスをとりながら『エヴァ』を堪能する。それがぼくの『エヴァ』への向き合いかたというわけだ。
「ぼくはいったいなにをしようとしているのか?」その答えは次の一言に尽きる。
「真実に近づきたいだけなんです。ぼくの中のね」
『新劇場版』と『旧劇場版』はつながっていない
ぼくが本格的な『エヴァ』考察をおこなうための〈理論〉はひととおり説明できた。ここでは、巷で流布している俗説についてコメントしておきたい。
まず、多くの人が主張しているのが『新劇場版』と『旧劇場版』とで、物語や世界がつながっている(『新劇場版』は『旧劇場版』の続き)とする説だ(かりに「新旧接続説」としよう)。過去の考察でぼくはこの考えを否定する意味で〈メタフィクション(仮想現実)〉説をとなえたわけだが、『シン・エヴァ』をふまえたいまも、ぼくは新旧接続説を否定する立場に立つ。
その理由は、〈シャシン主義〉に反することがひとつ。もっとも、これは「ゼーレは未来のゲンドウである」と言っているぼくが胸を張って主張できる理由ではない。少なくとも『エヴァ』考察において新旧接続説を前提とする義務は生じない、といえるだけだ。
それよりもぼくが新旧接続説に異議をとなえる理由として大きいのは、『新劇場版』は『旧劇場版』の続きと考えてしまうと、『エヴァ』が一気に白々しい作品になってしまうと感じるからだ。
『序』と『破』は基本的に『旧劇場版』と物語の展開はおなじだ。襲来してくる使徒もほとんどおなじか似通っていて、人類の対処のしかたもほぼおなじ。いわばおなじ愚をゲンドウたちはくりかえしていることになる。
それはありえない——というより、バカみたいな話ではなかろうか。
「いや、登場人物はくりかえしていることを認識していないのでは?」
そんな反論もあるかもしれない。しかし、登場人物が「くりかえし」を認識しておらず、新旧の接続をわかっているのが物語の外側にいるぼくたちだけだとするならば、「『新劇場版』は『旧劇場版』のリメイクである」という周知の事柄を言葉を変えて述べているだけになる。
これに対しては、「『シン・エヴァ』で、ゲンドウやシンジは〈マイナス宇宙〉にたどりついて『くりかえし』を認識したのでは?」と反論できるかもしれない。
たとえば、次のセリフはどうか。
〈マイナス宇宙〉でゲンドウと対峙するシンジが「父さんは、何を望むの?」と問いかけると、ゲンドウが答える。
おまえが選ばなかったA.T.フィールドの存在しない、全てが単一な人類の心の世界
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
©カラー
このセリフの「世界」とは、『旧劇場版』のゲンドウが実現したかった世界を指すと考えるのだ。つまり、ここでゲンドウは『旧劇場版』を認識していることになる。
でも、ぼくはこの考えかたを支持しない。『新劇場版』の人物が『旧劇場版』を認識していると考えた時点で、前述のとおり「白々しい作品になってしまう」。
また、ゲンドウがここで『旧劇場版』について言及する理由も、よくよく考えてみるとじつは合理的な説明はできない。ゲンドウはあくまで『新劇場版』の〈人類補完計画〉をやっているのであって『旧劇場版』のそれではない。『旧劇場版』でシンジが「A.T.フィールドの存在しない」世界を選ばなかったのはたしかだが、なぜそれが『新劇場版』の〈人類補完計画〉と関係があるのか、合理的な説明はつけられない。もしもゲンドウが『旧劇場版』で自分の理想とする世界が実現しなかったから『新劇場版』で雪辱を果たそうとしているとしたら、『旧劇場版』の物語が空中分解してしまう。なぜならゲンドウは最期に納得しながら退場していったはずだからだ。
『新劇場版』で表現される一切の描写・セリフは、あくまで『新劇場版』の中で完結し、けっして『旧劇場版』とは関係しない。そう考えるのが〈シャシン主義〉だ。
そして、ゲンドウのこのセリフは、〈イマジナリー世界〉+〈因果律の破れ〉によって合理的な〈解釈〉が可能なのだ。
念のためお断りしておくが、他人が「新旧接続説」を用いて考察することそのものをぼくは否定していない。もしもあなたが「新旧接続説」で劇中の表現を解釈するとより作品を堪能できるのであれば、ぜひそうしてほしい(皮肉ではない)。ぼくは「『エヴァ』が一気に白々しい作品になってしまうと感じるから」、それをしないというだけだ。
キリスト教のモチーフは雑学にすぎない
『エヴァ』には、いわゆるキリスト教のモチーフがちりばめられている点にだれも異論はないだろう。しかし、ぼくは〈考察〉にキリスト教に関する事柄を用いることはしない。理由は、〈シャシン主義〉に反しているのもあるが、そもそもぼくにキリスト教の知識がないこと。
それに、『エヴァ』の制作陣は、キリスト教のモチーフを劇中の謎めいた言葉や美術設定のヒントに活用しているだけで、キリスト教の教義を広めようとしているわけではない(と想像できる)のも理由のひとつだ。
ぼくが『エヴァ』考察でやりたいことは、劇中の描写を見て、「いったいなにが起こったのか?」「なぜそんなことが起こった(起こした)のか?」「それによってどんなメリットがあるのか?」といった謎の解明だ。キリスト教の教義に照らして劇中の表現がどんな意味をもつのか考えることではない。
たとえば、〈ロンギヌス〉は、キリスト教の伝承ではキリストの脇腹を槍で刺したローマの兵士の名前とされている。『エヴァ』制作陣はこのエピソードから着想を得て劇中のこのアイテムを命名したとおぼしいが、それ以上の意味をもつものではないと考える。「へ〜」とキリスト教に関する雑学を得られたことに満足はしても、『エヴァ』考察に寄与するものとは思えないわけだ。
〈ロンギヌス〉は「絶望の槍」とされるが、それはキリスト教の教義とは無関係だろう。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
©カラー
くどいようだが、キリスト教に関する豆知識を用いて『エヴァ』を考察する行為を否定するわけではない。キリスト教にくわしいあなたがみずからの教養で作品の世界にどっぷりと浸れるのであれば、(皮肉ではなく)これほど喜ばしいことはない。否定どころか、むしろ推奨したい。
あくまでこれからおこなうぼくの『エヴァ』考察では、キリスト教にまつわる雑学は基本的に利用しない、という点をご承知いただきたい。
これで、ぼくの『エヴァ』考察への向き合いかたをひととおり説明できたように思う。いよいよ次回から本格的な〈考察〉を始めよう。手始めに、過去にぼくが構築した理論〈メタフィクション(仮想現実)〉説を修正・発展させながら、〈イマジナリー世界〉について説明していきたい。
前述のとおり、記事の作成にはこれから着手する。恐縮ながら、記事の公開時期をこの場でお約束することはできない。記事をアップしたらSNS(Twitter(X)・Threads・Bluesky・Facebook・Mastodon)でお知らせする予定だ。
もしご興味があれば、本ブログのRSSをご登録いただくか、下記からぼくのSNSアカウントをフォローしていただき、更新情報をチェックしていただければ幸いだ(SNSアカウントへのリンクは、このページのフッターにもあります)。
2






コメント