『Cloud』を満喫できるのは〈選ばれし者〉だ。「自分も主人公と同じ目に遭うかもしれない」と恐怖をおぼえる。本作のどこがそんなに“リアル”なのか? 「ストーリーが荒唐無稽」「展開が唐突」といった感想を抱いたあなたに、本作のたのしみかたを伝授する。
[ネタバレなしのレビューなので、鑑賞前にもお聴き/お読みいただけます]
「いつもの黒沢監督」に恐怖と動揺をおぼえる
SNSなどを見ていると、この作品に対しても、どう向き合うべきか戸惑う人が多いようだ。そういう人は、終盤の展開が「唐突」「歪」と感じてしまったらしい。
黒沢清作品を観慣れている者のひとりとしては、当ブログは困惑しなかった。「いつもの黒沢監督」「この終盤の展開がやりたかったんだな。それまでの描写はお膳立てにすぎなかったな」などと思った。
本作にどんな感想を抱くかは、もちろん観る人の自由だが、当ブログは「身につまされる」想いを強く感じた。恐怖や動揺をおぼえる意味で本作は「ホラー」と言っていいだろう。
実際は黒沢監督が本作で観る者を怖がらせようとしているのかはわからない。あるいはその意図がなくても、黒沢監督だから自然とそうなってしまったのだろうか。
「自分も同じ目に遭うかも」という ほどよいフィクション
では、なぜ当ブログは「ホラー」を感じたのか。それは、「自分も本作の主人公と同じような目に遭うかもしれない」と思ったからだ。
(少しネタバレになるが)本作は、主人公が知らずしらずのうちに他人から恨みを買い、手痛いしっぺ返しを食らう、という物語だ。
(これはネタバレではないと思うが)主人公は転売屋だが、自分の仕事がそれほど悪いことだとは思っていない(少なくとも劇中の描写はそうなっている)。
現実世界では、転売屋は直ちに違法といえないかもしれないが、一般的にグレーだと認識されるケースも多いだろう。つまり、本作で描かれるような「しっぺ返し」を食らっても不思議ではない、といったほどよいフィクションになっている。
「ほどよい」とは、つまり観ている側が「自分も本作の主人公と同じような目に遭うかもしれない」と思ってしまうという意味だ。
知らずしらずのうちに“罪”を犯し“罰”を受ける恐怖
ここから、少し個人的な話をする。
当ブログは昨年に一人出版社をつくった。ビジネスとしては「本の出版」だから、本作の主人公がやっている転売屋とは異なる。
しかしながら、ただ漫然と「本の出版」をやっているだけでは厳しいと考えている。つまり、出版業をベースに、なんらかの新しい事業を行なわなければならないだろう(もちろん、転売屋をやろうというわけではない)。その「なんらかの新しい事業」を行なうことで、他人から恨みを買ってしまう可能性はゼロではない。
もちろん、あきらかに他人の利益を損なうようなことをやるつもりは毛頭ない。そこは細心の注意を払う。しかし、やろうとしていることが「なんらかの新しい事業」であるだけに、法やルールは守ったとしても、意図しないところで他人に迷惑をかけてしまい、恨まれてしまうことも絶対にあり得ないと断言する自信はない。
つまり、結果的に本作の主人公と同じことになってしまう恐れは十分にあるのだ。
本作で描かれる「手痛いしっぺ返し」は、“罪”と“罰”が釣り合っていない。そこに本作のおもしろさがあるが、観る人によっては荒唐無稽に思え、興ざめしてしまうのだろう。
だからといって、“罪”に対して相応の“罰”が与えられる話であったとしたら、やはり虚構としておもしろみに欠ける。本作はドキュメンタリータッチの映画ではない。そこは大いなるフィクションとして、巧みにデフォルメされているわけだ。
フィクションではあるけれど、「自分も本作の主人公と同じような目に遭うかもしれない」と思ってしまう意味では“リアル”だ。
その“リアル”のなかでは、人によって終盤の展開が荒唐無稽に感じられたとしても、別の人には身につまされる程度に“リアル”であり、歪さは感じられない。フィクションとして興ざめせず、“リアル”なホラーとして享受できるのだ。
もとより観る人を選ぶ映画ではあるのはたしかだ。本作は良くも悪くも黒沢映画といえる。いまは自分が〈選ばれし者〉のひとりである幸運を噛みしめたいと思う。
さて、あなたは〈選ばれし者〉だろうか?
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