貴志祐介作品の原作はなかなか楽しめたが、その映画化だからといって、ふつうなら食指は動かない。ふつうならば──。
しかし、この映画の監督は三池崇史なのだ。こちらの想像しない「なにか」があるはず。そう思って鑑賞してみた。
実際、その「なにか」は見つかったのか? 今回はそれを述べる。
[原作との比較1]エッセンスを忠実に再現
原作との違いを考えると、じつはかなり小説のエッセンスを忠実に再現していることがわかる。
突き合わせたわけではないので、もしかすると抜けている要素もあるかと思うが(いや、どう考えてもあるだろうけど)、一見するとストーリー、設定、登場人物をほぼもれなく盛り込んでいる印象だ。
逆に、小説を未読の人は情報過多で混乱するかもしれない。とはいえ、その「情報過多」を堪能するのも一興ともいえる出来栄えだ。
[原作との比較2]登場人物の存在感
原作の主人公は、小説ならではのリアリティと荒唐無稽さを兼ね備えた人物だ。小説としてなら収まりがいい。だが、これを映像化するとなると、当然、生身の人間が演じることになる。原作の持ち味を生かせないおそれもある。
しかし、それは杞憂だった。
主人公役の伊藤英明氏はベストキャスティングで、もちろん演技力も申し分ない。「そうそう“ハスミン”ってこういうやつだよな」と画面を見ながらうなずける。荒唐無稽な話に説得力がある。これはじつに貴重なことだ。
この映画の成功は、この伊藤氏に負うところが大きいと思う。
[原作との比較3]〈手段〉としての殺人を〈目的〉に転化
原作に漂う違和感として「主人公は頭がいいはずなのに、クライマックスでやっていることは愚か」という指摘がある。
これを自分なりに分析すると、「主人公はサイコパスなのだから、殺人を〈目的〉としているはずなのに、なぜか最後は〈手段〉になっている」ということだ。
この映画のクライマックスは、猟銃で生徒たちを撃ちまくるというシーンだ。本来なら陰惨な光景に目を背けたくなるはずなのだが、妙な爽快感がある。銃撃シーンはリアルなようでいて、じつはけっこうデフォルメされている。
観客と主人公が一体となって“殺人”を楽しむ格好だ。
原作の小説が〈手段〉としての殺人となってしまったのを、映画では〈目的〉としての殺人に転化させた。つまり、本来原作がめざしていた方向性を実現した、と考えることもできる。
これこそが三池クォリティということではなかろうか。
映画版のただひとつの欠点
小説の世界を忠実に再現したからこそ、同時に欠点も浮かび上がってくる。
ようするに、たったひとりで生徒を一網打尽にするなんて「そんなにうまくいくかな」という疑問が拭えないのだ。逃げ出すチャンスはいくらでもあるように思える。
小説ではいい意味で誤魔化せているのだが、映像にしてしまうと、粗が出てしまう。
まさに優れた映画化であるがゆえの欠点といえる。
©2012「悪の教典」製作委員会
おひさしぶりデース!
悪の教典!観たので来ました!!
ボクは残念ながら原作未読なので、映画のみを観た人間の感想としてお聞きください!
一言でいえば、おもしろい作品でした!!
悪には必ず天罰が下る、人を殺す殺さないの部分でずっと長考しているのが日本作品の傾向のなか
ここまで”殺人”をテンポよく、まるで音楽のように軽快に表現する作品は、海外でもなかなかありませんね!
(殺人という文字が、ブロックされないか心配ですw)
ハスミンは殺人をそもそも悪行と考えないサイコパスなので、それは悪だ!という日本の推理モノ主人公の説得で
揺らぐ悪党共にはない、残虐性が心地よいですw
やはり、今まで正義の熱血漢キャラが主流になっていた伊藤英明さんの存在が全てですね!
もちろん、キャスティングや監督が見出した功績が大きいですが、伊藤英明さんの爽やかスマイルの中に残虐性が潜んでいる
という点が、一番ゾクリとする部分です!
◆個人的には嫌われてる先生が、『俺は性格が悪い、だから人気者には拒否反応が出るんだがハスミには感じないんだ…』という気づきポイントに
絶賛です!^q^
ハスミンが一番の悪党でありながら、一番ムカツクのはハスミンではないという点も大きいですね!
モンスターペアレントの親、不良、生徒を脅迫して犯す教師。自己中な秀才
そいつらを始末していく様は、デスノート初期で自業自得な奴らに制裁を加える巨悪の姿に、やっちゃえ!やっちゃえ!という気分になりますw
しかし、ハスミンが好きになれそうな中、同性愛カップルを利用する点ではハスミを好きになれない
こういう部分でハスミンも応援しきれない事を表現しているのが良かったです。
〇主人公は頭がいいはずなのに、クライマックスでやっていることは愚か
この点は、まあ言われちゃうんでしょうが、ある種それは言ったら”野暮”よw要素ではないかと思います!
ヒーローの変身シーン、ビジュアル重視のロマン攻撃、90年代作品の最後は爆発で締める!といったような
せっかく、ハスミンという人間を描いたし、最後は特大の花火で締めよう!という大団円的な発想ですよね!w
真面目に解説するなら、ハスミンにとって殺人とは、数じゃない。
若き日に躊躇なく両親を始末し、海外で出会った同志も処分する。
そんな彼は、全ての生徒に好かれるよう、全ての生徒のデータが頭にある中
そこには一切の情がなかったように、『どうして?』と信じていた生徒を次々と撃っていきます!
これぞ心地よい!(ただ、それだと終盤一辺倒に感じたので、何かもうちょいコメントは欲しかったですね)
パンツをプレゼントするシーンは原作にもあるのですか?w
大量殺人なら、それに対する高揚や、数を誇る要素が常人にはありますが、ハスミンにはない!
この表現は見事だと思いました!
さらにいえば、カンニングの黒幕だった頭の良い生徒や、人格者を選別出来る特殊スキルの持ち主に出会ってバレてしまったところが
今回の大量殺人に起因してますよねw どちらにとっても不運でしたw
ハスミンは両親を殺す時もそうですが、新天地で新たな自分を再開する場合、古巣は綺麗にしたい願望があるのではないでしょうか?
即ち、自分を知る人物はなるべく殺しておきたいに直結します。
今回は、他の教師に罪を擦り付ける予定もあって、あえて愚かで脈絡のない大量殺人を選んだ、とも考えられます。
●あらゆるハスミンの感情を羅列するなら、予定より早くバレた事に対する怒り、自分への怒り。
自分が教師になれば、生徒を調教出来ると思ってたけど、なかなか上手くいかない苛立ち。
神聖な教育の場なのに、意外なほど教師にも生徒にもクズが多い事への嫌悪感。
バレたから、大掃除したい願望。 一種の破滅願望、生徒を試しながら自分も試すゲーム感覚。
自分が殺した快楽殺人者の幻影、しかし自分にもその部分がある事への自己嫌悪、でもそれに敢えて乗ってしまうノリの良さ
などなど!これら全てが、ちょっぴりずつ、彼を突き動かしたのだと思います。
一番、ハスミンの行動で納得できないのは、猟銃、散弾銃を撃てば耳が聴こえなくなると知っていながら、なぜずっと耳当てをしないのか?
です!
ここは原作で、理由が書かれていますか?
いつもながら、長々と失礼しました!
ぎゃふん工房さんなら、こういう突っ込んだ話にも乗ってくれるだろうという期待と、なかなか周りで観てる人がいなくて熱く語れないので
それがいつも爆発してしまいますw
悪の教典は、また!映像化して欲しい作品です! 舞台や、細かな配役を変えれば、金田一シリーズのように
監督によっていくらでも好きに描ける作品だと思うからです!
今度はドラマシリーズとかで、もっと丁寧にじっくり観たい気もしますね!!
サイコブレイク2!!!!ようやく夢が叶いました!!
これは、ぎゃふん工房さんに辿り着く人がまた増えることでしょう!w
楽しみですね!!^^
こんにちは! コメントありがとうございます。
そもそもハスミンの行動や心情などは、観ている側としても「理解」はできるし、主人公として肩入れできるように描かれているわけですからね。コメントしていただいた内容は的を射ていると思いますよ。
原作小説との違いですが、読んだのはかなり前なので、忘れてしまいました(笑)。ご質問にお答えできず、申し訳ないです。
たしかに、いろいろな監督による『悪の教典』も観てみたいですね。スピンオフみたいな作品はあったかと思いますが、私は未見です。
『サイコブレイク2』はもうすぐですね。その前に『アンチャーテッド』があるので、個人的には『サイコブレイク2』をプレイするのはみなさんより遅れるかもしれませんけどね。
では、今後ともよろしくお願いします。