本作『白石晃士の決して送ってこないで下さい』は超話題作・超大作・意欲作・力作……の類ではなく、肩の力が抜けた“小粒な作品”のように見えるが(ゴメンなさい)、白石晃士監督作品が好きならば——いや、ホラー好きならば一度は観ておきたい良作である。
肩の力を抜いて、本作の魅力をざっくりと語っていこう。
見事なストーリーテリングで飽きさせない
廃虚でカメラをまわしていると、心霊現象のようなものに遭遇し、悪霊の類に取り憑かれてしまう——という、何千万回と繰り返し観ている(観せられている)シチュエーション。ふつうなら「もうウンザリ」と途中で投げ出してしまうところだが、白石監督の見事な手腕もあって、飽きずに画面に釘付けになる。
といっても、本作で表現される「心霊現象のようなもの」は、(ホラーのライト層はともかく)ホラーばっかり観ている者にとっては、それほど恐怖を催すものではない。どちらかといえば“笑える”。まあ、白石監督の観客へのサービス、刺し身のツマといった趣だ。
心霊現象の描写には力は入っていない(ように見える)が、白石監督のストーリーテラーとしての本領はいかんなく発揮されている。予想もつかない展開になっていくのだが、けっして突飛とか奇をてらっているわけでもなく、自然に話は流れていく。ホラーというより、娯楽作品として脚本の完成度の高さはもっと注目されていい。
心霊現象より暴力描写に力が入っている
むしろ本作で力が入っているのは、暴力——ドメスティックバイオレンス(DV)や性暴力の描写だ。「男から女への暴力」ということになるが、観ているほうはどちらかといえば加害者(男)よりも被害者(女)のほうに肩入れし、それゆえに恐怖をおぼえることになる。
DVの描写の生々しさ——実際には自分がDVを起こしたり、そういう場面に出くわしたりしたことはないので、どれほど現実味のある描写なのかはわからないが、少なくとも「もっともらしい」説得力に満ちた迫力のある描写になっているのはたしかだ。
このDVという要素は、『オカルトの森へようこそ THE MOVIE』『戦慄怪奇ワールド コワすぎ!』『サユリ』など、白石監督作品に頻繁に登場するモチーフだ1。
なぜ白石監督はDVを“好んで”自作に取り入れるのだろうか。
もちろん、真意は想像するしかないのだが、おそらく暴力(とくに男から女に対するそれ)は、この世でもっとも忌むべき行為であり、それゆえにもっとも恐ろしいものである——という意識を白石監督は持っているからではないか。もちろん、観る側としても忌避したいことであり、だからこそ恐怖を催す要素になりえる。
ホラーというフィクションにおいてDVをモチーフにすることは、もしかすると賛否が分かれるかもしれない。その意味で、観る側に高いリテラシーが必要とされる作品ともいえるだろう。
ほんとうに取り憑かれているのか……?
いい意味で肩の力が抜けた心霊現象と、白石監督がこだわる暴力シーン。本作は図らずも白石作品の集大成になっている。
ただ、「集大成」は悪くいえば「焼き直し」ととらえることもできなくはない。しかし、本作にはほかの作品にはない魅力——いや、恐怖のエッセンスが込められているようにも思う。
前述のとおり、本作は悪霊の類に取り憑かれてしまう物語のように思うし、登場人物がそのようなことを口にもするのだが、じつはほんとうに取り憑かれているのか疑わしい部分があるのだ。より正確にいうなら、取り憑かれているとしても、よくよく考えてみると、劇中に起こる異様なふるまいのすべてがほんとうに“悪霊”や“呪い”によるものなのか、確証がない。
つまり、異様なふるまいは、その人物の自由意思によるものと解釈する余地が残っている。超自然主義的現象が起こっているなら、本作がホラー作品であるがゆえに、逆説的に“安心”できるのに、実際は(「その人物の歪んだ性格」などという説明が付けられることによって)自然主義的現象として受け入れなければならない。
そうなると、ホラーのヘビー層でさえも恐怖をおぼえることになる。この倒錯こそが本作の魅力であり、白石監督の新境地ともいえるだろう。
けっして肩の力を抜いて語るべき作品ではなかったのだ。
ここで、冒頭の“小粒な作品”という評価は取り消させていただければ幸いだ。
©「白石晃士の決して送ってこないで下さい」プロジェクト
- 『サユリ』のDV(性暴力)は原作のマンガには存在せず、白石監督の映画版で加えられたオリジナルの要素である。 ↩︎
コメント