前ページまでの考察で「第1使徒の僕が13番目の使徒に堕とされるとは…」の謎は解けた。だが、すっきりしないなにかが残った。そこでこのページでは、カヲルのキモチに寄りそいながら、再度考えてみる。
カヲルは恩を仇で返された
何度も恐縮だが、『新劇場版』の謎を代表するセリフに着目する。
今度こそ君だけは
幸せにしてみせるよ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』
©カラー
これまでの考察で得られた結論から、このセリフの裏には次のような真実が隠されていると考えられる。
『破』の終盤、〈Mark.06〉に搭乗していたとき、おそらくカヲルは〈ゼーレ〉の意向に逆らうつもりだった可能性が高い。
〈ゼーレ〉の意向に従って計画を実行すれば人類は滅亡するのだから、シンジを幸せにすることにはならないだろう。
〈死海文書外典〉によって「シンジが不幸になる」状況が起こらないのなら、カヲルが〈ゼーレ〉を裏切る必要などない
〈外典〉こそが真実であることをカヲルは知っているので、自分なりの計画を実行している。
『新劇場版』の物語全般をとおして、カヲルのやろうとしていることは、
〈死海文書(正典・外典)〉にもとづく〈人類補完計画〉の阻止
であることは、もはやあなたには釈迦に説法だろう。カヲルは「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」を実現しようとしているわけだが、結果的にカヲルの行為は
人類(リリン)を幸せにする
ことにつながる点も、あなたに異論はないであろう。だからこそ、『新劇場版』では、カヲルはある種の“正義の味方(ヒーロー)”のように描かれているわけだ。
しかしながら、「第1使徒の僕が13番目の使徒に堕とされ」てしまった。あろうことか、自分が救うはずのリリンの手によって。
いわば恩を仇で返されたことになる。
カヲルのココロに、絶望と哀しみ、あきらめの感情がわきあがったことは想像に難くない。
それでも、状況を変える手立てがあったなら、カヲルもそこまで悔しがったりはしないだろう。「世界をやり直す」という計画の実現に向けて奮闘したはずだ。その点でシンジとは異なる。
だが、あなたもご存じのとおり、時はすでに遅し。気づいたときにはその手段は完全に奪われていたのだ。
自分を罠にはめた張本人であるゲンドウには、皮肉もこめて“称賛”の声を送りたくなったにちがいない。
さすがリリンの王
シンジ君の父上だ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
©カラー
先に考察したように、〈死海文書(正典)〉の大義名分は次のようなものだった。
〈リリス〉は〈ヒト〉vs〈使徒〉の生存競争における審判のような存在。〈ヒト〉は〈使徒〉との競争に勝てば、〈リリス〉によって、より高みの存在になれる。
これは人類(リリン)を利用するための方便であったこともすでに見てきたとおり。
だが、カヲルは人類(リリン)によってこの「生存競争」の相手にされ、なおかつ敗北してしまった——そんなふうに考えることもできよう。
そうすると、次のセリフも味わい深いものになる。
始まりと終わりは
同じというわけか『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
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そもそもの始まりは人類と〈使徒〉との「生存競争」であった。そして、やはり「生存競争」によってすべては終わったのだ——カヲルはそう思ったのだろう。
『Q』こそがホンモノの『新劇場版』
今回の考察は以上で終わる。ここまでたどりついたあなたには、感謝の意を表したい。
当ブログの〈メタフィクション(仮想現実)〉説を前提に、もう少しだけカヲルの境遇を分析すると、趣深い真実も見えてくる。あとちょっとだけお付き合いいだきたい。
すでに考察してきたとおり、ゲンドウは〈ゼーレ〉の裏をかこうとしており、カヲルもまた〈ゼーレ〉にしたがうつもりはなかった。
ということは——。
ゲンドウとカヲルの目的は、じつは一致していたのだ。いずれも、計画が実現すれば〈ゼーレ〉の思惑ははずれ、人類が救われることになるのだから。
しかしながら、ゲンドウはカヲルが〈ゼーレ〉に逆らおうとしていることを知らない。カヲルもゲンドウが〈ゼーレ〉を裏切ろうとしていることは知る由もない。
もしも、ふたりがお互いの真の目的を知っていたとしたら、手と手を取りあって共闘し、〈ゼーレ〉を倒す——そんな展開もありえた。
だが、結果はみなさんもご覧になったとおりだ。
これは、ゲンドウもカヲルも知りえない、作品を観る者だけがつかめる真実といえる。
カヲルとは別の意味で、あなたのココロに「絶望と哀しみ、あきらめの感情」がわきあがってこないだろうか?
そんな想いを抱えながら、『Q』のラストの展開を観てみよう。
アスカは、シンジを助けにやってくる。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
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アスカが救いにきたのは、物語上はシンジだ。だが、物語の外から眺めれば、茫然自失となっている私たちなのかもしれない。少なくとも作品を観る者はアスカには“頼もしさ”を感じたはずだ。
エンディングで宇多田ヒカルの歌う「桜流し」は、そんな傷ついた者たちのココロを包みこむ。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』および『破』は、旧劇場版のリメイクだ。『破』のラストの展開はやや異なるものの、ストーリーはおなじ。(あえて悪くいえば)画面が綺麗になっただけ、といえなくもない。
しょせん『序』『破』は“テストタイプ”と“プロトタイプ”。『Q』こそがホンモノの『新劇場版』なのだ。
当ブログはそう考えている。
さて、『シン・エヴァ』は“ホンモノ”を超えることができるだろうか?
冒頭で「『シン・エヴァ』の公開までに、あと2つの大きな謎を解かねばならん」と述べた。残されたもうひとつの大きな謎は「ヴィレ、誕生」だろう。“空白の14年間”に起こった〈サードインパクト〉についてはつぶさに分析したが、ヴィレがどのような経緯で誕生したかなど、ミサトたち登場人物の動きについては不明なままだ。
とはいえ、残念ながら、『シン・エヴァ』の公開までにその謎を解くのは無理かもしれない……。
[2020年4月17日追記]公開の延期が決定しました。「『ヱヴァ』制作陣の動きも計算内だ。今はこれでいい」「チャーンス!」
こんにちは。こちらの記事に死海文書についての私の考察を全てまとめたのですが、10までと11からでは全く性質が違うことが分かりました。
こちらの記事で言われていることと整合性があると思いますので、ぜひ一読して頂ければと思います。
ありがとうございます! のちほど拝見いたします。
どうぞよろしくお願いします。
突然、失礼いたします。
去年の8月に初めて新劇場版を観た新参者です。
それ以前のエヴァンゲリオンはまだ一部しか観ていません。
いよいよ、本日から「シン・エヴァンゲリオン」が上映ですね。
ぎゃふん工房さんのメタフィクション説は非常に興味深く、引きこまれました。
メタフィクション的な解釈はどんなものでも説明がついてしまう面もありますが、壮大で意外性のある構成が魅力ですね。
メタフィクション的な展開や演出がどのくらい直接的に表現されるのかはわかりませんが、自分の好みとしては、
エヴァンゲリオン全体がもともと、ある種のゲームの世界のようなもので、ルールに従うだけではなく、そのルール自体、世界自体もなんとかして、粘り強く変えていく、そういう意志の力を信じる、というようなメッセージを感じます。世界に従うばかりではなく、世界を変えていこうとする。
エヴァンゲリオンの登場人物の多くは、ゲームのnon-player characterであり、playerは実は使徒、ユイ、シンジ(ほか選ばれた少年少女たち)であってもよいかな、とふと思います。
いずれにしても庵野監督の描いた「結末」が楽しみです。
私もそんな展開になったらおもしろいなと思っています。
一方で、私の〈仮想現実〉説、あるいは一般的な〈パラレルワールド〉説や〈ループ〉説、『シン・エヴァ』ではそのいずれが“真実”かわからないような感じにしてほしい気もしています。
そのほうが映画を観終わったあとも、考察する楽しみが残されますからね。
コメント、ありがとうございました!
ありがとうございます。
人間が空想の中で神を作り、神は世界と人間を創造する。そういうフィクションと現実の円環、ループ。
様々な人がいれば、多数の空想世界が存在する。統一する神もあれば、そうでない神々もある。
人間は自ら創りだした、道徳・宗教・法律などに縛られる。現実とフィクションの混ざり合い。
映像、台詞、キャラクターで、それぞれ色々なエヴァ感や仮説を表現したり、自由に考察できてなおかつ「結末」に着地する。かなり難しいでしょうけど、庵野監督には期待してしまいます。
個人的な意見ですが、インパクトの中心(トリガー?)になる条件は、
新旧合わせて ①アダムスや”神”の子かどうか② 知恵の実と生命の実を両方持っているか
だと思います。
TVセカンド=①のアダム? 旧サードは②の初号機、 新セカンドは①の4体のアダムス、ニアサーは②の初号機、
サードは①のリリス、フォースは①の13号機が当てはまると思います。
「アダムス」「知恵の実と生命の実」あたりは、まちがいなさそうです。
「“神”の子」というのは興味深い視点ですね。あらためて劇中の描写などを検証してみたいところです。
コメントありがとうございました!